ウィーンへの移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
「アドルフ・ヒトラー」の記事における「ウィーンへの移住」の解説
1907年4月、18歳になったヒトラーは法律上700クローネ相当の遺産分与の権利を得たが、これは当時の郵便局員の収入の一年分であった。父の遺産に加えて遺族年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるウィーンへ移住して美術を学ぶことを決めた。同年9月にウィーン美術アカデミーを受験した。当時のウィーン美術アカデミーは大学などの高等教育機関ではなく職業訓練学校であり、年齢制限や学歴などの条件が緩く、実科学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であった。前年の1906年にはヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレが工芸学校を卒業後、16歳で入学している。 しかし、ヒトラーの結果は不合格であった。試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実科学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。頭部デッサン未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている。受験人数は113名と少人数で、合格者も28名と4倍程度の倍率で、極端に難関という訳ではなかった。試験内容は実技とこれまで製作した作品の審査からなっていたが、前述の通り頭部デッサンの未提出など、審査用の作品に不足があると判断されて不合格となった。アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判した際には、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された。ウィーンでの美術館巡りでは、建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーも実際には建築物を好んでいて、この助言に大いに乗り気になったが、程なく画家よりさらに非現実的な望みであることを知って断念したと書き残している。 「 …画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難であることに気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ… 」 画風については、丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しいという評価で、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという。ミュンヘン時代の知人の証言では、ヒトラーは同地で生活した頃は名所の風景画を中心に売っていたが、本人は現地には行かず、記憶やほかの画家が描いた絵などを参考に描くという独特の手法をとっていた。本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえのことと自負していた節があり、世紀末芸術、ダダイズムやキュビズムなどの新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。シーレらがアカデミーに迎えられたことについて、後年までルサンチマンを抱き、総統となってからは、彼らの作品やアカデミーを「退廃芸術」として徹底的に糾弾し、弾圧下に置いている。芸術に限らず、ヒトラーは自らを認めなかった「硬直的な正規教育課程」を憎み、晩年まで憎悪を口にしていた。 ウィーンに出向いている間、ヒトラーは故郷との連絡をなるべく避け、母やブロッホらに葉書を送る時も当たり障りのない内容に留めて受験結果も伝えなかった。クララは見舞いに来たクビツェクに堰を切ったように息子への怒りや悲しみを嘆き、「あの子は自分の道を歩んでいる、他の人なんかいないみたいにね…あの子が独り立ちしたとしても、私は見られないでしょうね」と諦めた声で呟いたという。 1907年10月、ブロッホはクララに正式な余命宣告を行って親族にも告知した。流石のヒトラーも実家に戻り、変わり果てた母の姿を見て呆然とした。一生を通して初めて叔母と妹と家事を手伝うようになり、痛みで苦しみすすり泣く母の傍を片時も離れず、夜もベッドの隣に置いた長椅子で眠った。1907年12月21日、クララは47歳で病没し、レオンディングにある父アロイスの墓の隣に葬られた。葬儀が終わった後、ブロッホの下をヒトラーが訪れ、出来うる限りの治療をしてくれた事に心からの感謝を述べた。その様子についてブロッホは「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」と回想している。後にヒトラーは『我が闘争』の中で以下のように語っている。 「 母の墓を前にして立っていたあの日以来、私は一度も泣いた事がない。 」
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