ウィーンの聖セバスティアヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:07 UTC 版)
「聖セバスティアヌス (マンテーニャ)」の記事における「ウィーンの聖セバスティアヌス」の解説
この絵画は、マンテーニャがパドヴァでのペストから回復した後の1456–1457年に制作されたことが示唆されている。パドヴァの人文主義者でマンテーニャの友人であった傭兵隊長、ヤコポ・アントニオ・マルチェッロのために描かれたか、疫病の終わりを祝うためにパドヴァ市長から依頼されたもので、画家がマントヴァに向けてパドヴァを離れる前に完成した。1659年にオーストリアハプスブルク家のレオポルト・ヴィルヘルム大公のコレクションに入った。 バッティスティによると、作品のテーマはヨハネの黙示録を拠り所としている。左上隅の雲の中に騎手がいる。ヨハネの作品で詳述されているように、雲は白く、騎手は鎌を持っており、鎌を使って雲を切断している。騎手は、ギリシャ・ローマ神話のサトゥルヌスと解釈されてきた。古代では、サトゥルヌスは過ぎ去った時間と同一視され、サトゥルヌスが通り過ぎた後はすべてが破壊された。 ローマのカンポ・マルツィオ(マルスの野)の柱に結び付けられたセバスティアヌスの古典的な人物像の代わりに、画家は、凱旋門であるか町の門であるかはともかく、アーチを背にした聖人を描いた。 1457年、画家は、『聖母被昇天』のフレスコ画に8人の使徒しか入れなかったため、その「芸術的不適切さ」により裁判にかけられた。そこで、画家は、彼自身の懐古的な視点によって変形させたものの、アルベルティの古典主義の原則を、この小品の『聖セバスティアヌ』を含め以降の作品に適用した。 マンテーニャの特徴は、画面の明快さ、建築的細部の「考古学的」な再現の正確さ、そして殉教者の姿勢の優雅さである。 聖人の右側にある縦の碑文は、ギリシャ語によるマンテーニャの署名である。
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