マンテーニャ
アンドレア・マンテーニャ
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2015年6月) |
アンドレア・マンテーニャ Andrea Mantegna | |
---|---|
マントヴァのサンタンドレア大聖堂に置かれた胸像 | |
生誕 | 1431年 ヴェネツィア共和国, イーゾラ・ディ・カルトゥーロ |
死没 | 1506年9月13日 マントヴァ侯国, マントヴァ |
アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431年 - 1506年9月13日)は、イタリアルネサンス期の画家、版画家。
ゴシック期、ルネサンス期のイタリアの絵画は、都市ごとに独自の発達をとげ、シエナ派、ヴェネツィア派などと都市の名を冠して分類される。マンテーニャはパドヴァ派の代表格と見なされる画家である。
解説
1431年、パドヴァ近郊のイーゾラ・ディ・カルトゥーロ(現在はピアッツォーラ・スル・ブレンタに属する)に生まれる。修業時代は、パドヴァの画家フランチェスコ・スクァルチオーネに師事した。マンテーニャは、画家ヤーコポ・ベッリーニの娘と結婚しており、有名な画家兄弟のジェンティーレ・ベッリーニおよびジョヴァンニ・ベッリーニは義兄弟にあたる。1450年、ロドヴィコ・ゴンザーガ侯の招きでマントヴァへ移り、1460年以降はマントヴァ侯ゴンザーガ家の宮廷画家として過ごす。また、1471年以降1480年ころにかけてビュランで銅版を直接彫るエングレービングという銅版画を制作した。
遠近法を駆使した厳格な画面構成、ごつごつした硬質な線描、彫刻的な人体把握など、イタリア・ルネサンスの画家たちのなかでも異色の作風を示す。マンテーニャが活動した15世紀後半にはすでに油彩技法が普及しており、彼と同世代の画家で義兄弟でもあるジョヴァンニ・ベッリーニも油彩画を描いているが、マンテーニャは伝統的な画材であるテンペラをもっぱら用いた。
ミラノのブレラ絵画館にある代表作『死せるキリスト』は、十字架から降ろされたキリストが、両足の裏を観者の方へ向けて横たわる姿を短縮法(遠近法を適用した描写法の一種)を駆使して描写したものである。キリストの手足に残る釘の跡、変色した皮膚まで容赦なく描写するこの絵には、マンテーニャの写実への執念が感じられる。[独自研究?]
銅版画
- 「キリストの埋葬」 銅版画
- 「キリストの復活」 銅版画
- 「酒樽のあるバッカナーレ」 銅版画
- 「シレノスのいるバッカナーレ」 銅版画
- 「海神の闘い(左半図)」 銅版画(エングレービング・ドライポイント) 1475年ころ 国立西洋美術館所蔵
- 「海神の闘い(右半図)」 銅版画
- 「聖母子」 銅版画
ギャラリー
-
『羊飼いの礼拝』 (1450-1451年)、メトロポリタン美術館
-
『神殿奉献』 (1455年頃)、絵画館 (ベルリン)
-
『ゲッセマネの祈り』(1458-1460年)、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)
-
『ユーディットとホロフェルネス』(1495年頃)、ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
-
『贖い主としてのキリスト』(1495/1500年)、コペンハーゲン国立美術館
-
『聖アンナ、洗礼者聖ヨハネといる聖家族』(1495-1505年)、アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)
脚注
- ^ 池上英洋『西洋美術史入門 実践編』筑摩書房、2014年、86頁。ISBN 978-4-480-68913-9。
この節の加筆が望まれています。 |
参考文献
この節の加筆が望まれています。 |
関連書籍
- カメザスカ, エットーレ『マンテーニャ 独自な芸術の探求者』塚本博訳、東京書籍〈イタリア・ルネサンスの巨匠たち17〉、1993年11月、ISBN 978-4-487-76367-2
マンテーニャ(パドヴァ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 15:46 UTC 版)
「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「マンテーニャ(パドヴァ)」の解説
ルネサンス初期の北イタリアでもっとも重要な画家は、フィレンツェ出身の偉大な彫刻家ドナテッロが活動していたパドヴァで若年期を送ったマンテーニャである。ドナテッロは、ローマ教皇庁の傭兵隊長ガッタメラータの勲功を称えた、その後数世紀にわたって騎馬像彫刻作品を方向付けることになる『ガッタメラータ騎馬像』(1450年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前広場(パドヴァ))をはじめ、多くの彫刻を制作したルネサンス史上非常に重要な芸術家で、透視図法を駆使したレリーフや建築設計などにも優れた作品を残している。 マンテーニャはわずか17歳のときに最初の絵画制作依頼を受けた。パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂近辺のエレミターニ礼拝堂のフレスコ壁画『聖ヤコブと聖クリストフォロスの生涯』である。エレミターニ礼拝堂は第二次世界大戦による被災で大部分が破損し、『聖ヤコブと聖クリストフォロスの生涯』も写真が残っているだけだが、マンテーニャが10代にして透視図法の優れた技術と古代ギリシア・ローマの美術様式への知識を身につけていたことがわかる。これは13世紀はじめに設立された伝統あるパドヴァ大学が、15世紀のイタリアでも屈指の高等教育機関だったことも関係している。 マンテーニャのもっとも有名な作品は、マントヴァ侯爵ゴンザーガ家の邸宅であるドゥカーレ宮殿の「夫婦の間」(en:Camera degli Sposi) に、1470年ごろに描いたフレスコ画である。このフレスコ壁画には当時のゴンザーガ家の暮らしぶりが描かれており、当主の侯爵ルドヴィーコ3世がローマ遊学から帰宅した息子と家庭教師を迎える場面や、一族が狩猟の準備をする場面など、歴史、文学、哲学、宗教などとはまったく無関係な日々の情景が描写されているという点において異例の作品となっている。飾り額や花冠を手に持って楽しげに飛び回ったり、天井に描かれた架空の空を取り囲む、騙し絵のような飾り穴のある欄干にしがみつく天使たちが、わずかに宗教色を感じさせる例外的存在となっている。
※この「マンテーニャ(パドヴァ)」の解説は、「ルネサンス期のイタリア絵画」の解説の一部です。
「マンテーニャ(パドヴァ)」を含む「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事については、「ルネサンス期のイタリア絵画」の概要を参照ください。
「マンテーニャ」の例文・使い方・用例・文例
マンテーニャと同じ種類の言葉
- マンテーニャのページへのリンク