ウィーンにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 01:37 UTC 版)
「アンドレア・ポッツォ」の記事における「ウィーンにて」の解説
リヒテンシュタイン侯爵のヨハン・アダム・アンドレアスの推薦と、1702年のレオポルト1世の招待より、ポッツォはウィーンに移った。 彼のウィーンの祭壇画ではウィーン・イエズス会教会のものが現存している。彼の祭壇画の構成と錯視的な天井フレスコはウィーンのバロック美術に強く影響を及ぼした。ハンガリー、ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキア、ポーランドにも多くの支持者がいた。 ウィーンで現存している最も重要な作品は、リヒテンシュタイン庭園宮殿のヘラクレス広間の巨大な天井フレスコ「ヘラクレスのオリンポス入場」(1707年)である。錯覚の効果により、建築画が天井の縁にまで広がり、天井がオリュンポスの神々がいる天界へ切り開かれているように見える。 ポッツォは1709年にウィーンで亡くなった。イタリアに戻りヴェネツィアの新しいイエズス会教会を設計する予定でいた最中だった。彼の実績を讃えて、ウィーンのイエズス会教会に手厚く埋葬された。
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