ウィーンとの併合後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:59 UTC 版)
「ハイリゲンシュタット (ウィーン)」の記事における「ウィーンとの併合後」の解説
ウィーンの外環状城壁リニエン・ヴァル取り壊しの後、1892年にハイリゲンシュタットは周辺のジーヴェーリング(Sievering)、グリンツィング(Grinzing)、オーバーデーブリング(Oberdöbling)、ウンターデープリング(Unterdöbling)、ヌスドルフ(Nußdorf)、カーレンベルガードルフ(Kahlenbergerdorf)と共にウィーンに併合された。1898年にはオットー・ワーグナーによる鉄道駅がカイザー・フランツ・ヨーゼフ鉄道と、1870年に運行を開始したウィーンシュタットバーンの乗り換え地点としてハイリゲンシュタット駅が開かれている。今日、このハイリゲンシュタット駅はウィーン中心部やウィーンのすぐ北クロスターノイブルクへ向かう路線バスのバスステーションとしても使われている。鉄道路線はウィーン地下鉄U4がウィーン・ミッテ駅方面からウィーンSバーンS40がフランツ・ヨーゼフ駅から、S45がヒュッテルドルフ駅からそれぞれ結ばれており中心部への利便性が高い。 第一次世界大戦の後、ウィーンに社会民主主義の市政府が成立し、労働者階級の劣悪な住環境を改善するため、大量の市営住宅を建設した。その一環でハイリゲンシュタットに集合住宅カール・マルクス・ホーフが建てられた(1930年)。現在のカール・マルクス・ホーフ界隈は12世紀頃には交易船が通るドナウ本流の一部で、後に果物や野菜の菜園になっていた土地であった。カール・マルクス・ホーフは1382戸でオットー・ワーグナーの弟子カール・エーンの設計、ウィーン市の技術監督により建設されている。1934年にオーストリア内戦が起こると、ここに反政府の労働者たちが立て籠もった。 元々はドナウ川から広がる丘陵地帯に葡萄畑が広がっていたが、19世紀には工場の立地が進んだ。
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