ウィーン市街改造計画
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「ウィーンの歴史」の記事における「ウィーン市街改造計画」の解説
「リングシュトラーセ」も参照 中世から近世にかけての、自治都市が市壁によって「都市の自由」を守る時代は、すでに終わりを告げていた。市壁の上はウィーン市民の散歩道となっており、市壁外の空き地も緑化が進んでおり市民の憩いの場となりつつあった。このように、市壁の必要性は既に失われていたのである。パリでは、1850年代よりジョルジュ・オスマンのもとで大規模な都市改造が行われて近代都市へと脱皮し、フランスとその指導者ナポレオン3世の威光をヨーロッパ中に示していた。こうした中、ウィーンもかつての市壁を撤去し、近代都市へと生まれ変わることで、オーストリア帝国の威光を示すとともに、工業化にともなう人口集中に対応する必要があったのである。また、鉄道網を整備する上でも市壁のせいで線路を市の中心部まで敷設できないでいた(ウィーン南駅やウィーン西駅がやや中心部から外れているのはこれに由来する)。 1858年より、市壁の取り壊しが開始された。同年、オーストリア国家の主導で都市計画の公募が開始され、年末に全応募案がウィーン市民に公開された。この際、ウィーン市の介入はできる限り排除され、常に主導権は国家にあった。市壁の取り壊しは、かつて皇帝にすら反旗を掲げたウィーンの自治が崩されていく象徴ともいえた。その点で、この都市改造計画も自律的な市民が徐々に国民化される過程とも理解できる。当時のウィーン市長ヨハン・カスパール・ザイラーは、こうした国家主導の都市改造に不満を表明している。 1853年、不凍港獲得を目指すロシア帝国はオスマン帝国との間に戦端を開いてクリミア戦争が起こったが、これに対し、バルカン半島におけるロシアの影響力がさらに増大することを恐れたオーストリアは、オスマン帝国の支持にまわった。これはナポレオン戦争以来の盟友であったロシアとの関係を決定的に悪化させた。1859年にはイタリア統一(リソルジメント)を企図していたサルデーニャ王国との戦争に敗北し、ミラノなどロンバルディア地方を失い、1866年にはビスマルク率いるプロイセン王国との間に普墺戦争が起こってケーニヒグレーツの戦いで大敗を喫した。その結果、オーストリアを盟主とするドイツ連邦は消滅し、イタリアではヴェネト地方を失うなどハプスブルク家率いるオーストリアは確実にその国際的地位を低下させていった。ドイツから閉め出された形となったオーストリアは、1867年のアウスグライヒ(妥協)によってやむなくマジャール人の自治を認めてオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した。その結果、オーストリア帝国(正式には「帝国議会において代表される諸王国および諸邦」)とハンガリー王国は外交・軍事・一部の財政をともにするだけで、帝国内ではそれぞれ独自の政府と議会をもつこととなった。 ヨーロッパ各国で民族主義に基づく国家統一の嵐が吹き荒れるなかで、複合民族国家オーストリア帝国はその存在意義を厳しく揺さぶられた。したがって、排他的な民族主義と対峙するコスモポリタン的な近代都市としてウィーンを完成させることは、自らの帝国理念、そして帝国の存在意義を帝国内外に知らしめるためにも必要不可欠であった。19世紀後半になると、戦争の英雄に代わって、ウィーンで活躍した芸術家の銅像が盛んに建てられるようになったが、このことも、当時のウィーンがおかれていた状況を示しているものといえる。 城壁跡にはリングシュトラーセ(環状道路)が建設され、環状道路沿いに帝国議会議事堂(ドイツ語版)、国立オペラ劇場、ウィーン楽友協会などがあいついで建設された。1873年にはプラーター公園でウィーン万国博覧会が開催され、近代都市ウィーンを対外的にアピールした。日本の岩倉使節団もこの万博を見学している。オーストリア帝国各地からウィーンへの移住者があいつぎ、郊外に集合住宅が並び立った。当時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はユダヤ人に寛大な姿勢をとっており、東欧各地でポグロム(ユダヤ人迫害)が横行していたためユダヤ人の移住もあいついだ。こうして、ウィーンはそのコスモポリタン的な性格を一層強めることになった。行政語として定められていたドイツ語のほか、ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語・ロマ語・イタリア語など、様々な言語を街では耳にすることができた。
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