ウィーン宮廷歌劇場での活躍
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「交響曲第7番 (マーラー)」の記事における「ウィーン宮廷歌劇場での活躍」の解説
1905年秋には、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』をウィーン宮廷歌劇場で上演しようと尽力するが、検閲のために果たせなかった。このことは、1907年にマーラーが歌劇場を辞任する遠因となる。 同年11月24日、アルフレート・ロラーの舞台装置と新演出によるモーツァルト生誕150周年記念のオペラ・チクルスを開始、『コジ・ファン・トゥッテ』を皮切りに、12月21日『ドン・ジョヴァンニ』、1906年1月29日『後宮からの誘拐』、3月30日『フィガロの結婚』、6月1日『魔笛』とつづく。 このほか、ハンス・プフィッツナー『愛の庭のバラ』、レオ・ブレッヒ『それは私だった』、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ『せんさく好きな女たち』などをウィーン初演するなど、精力的に活動している。プフィッツナーは、マーラーの妻アルマが熱烈に崇拝していた作曲家で、アルマは偶然を装ってピアノの上にスコアを置き、昼休みにこの曲をピアノで弾いて、マーラーの関心を引いたとされる。
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