ウィーン学団との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 05:59 UTC 版)
「アルフレト・タルスキ」の記事における「ウィーン学団との交流」の解説
1929年秋、ウィーンより数学者カール・メンガーがワルシャワに招かれ、一連の講義を行った。メンガーは、当時論理実証主義運動を先導していた「ウィーン学団」の中心的メンバーであり、メンガーはこのとき知り合ったタルスキの仕事に興味を持つようになる。このメンガーの招きにより、1930年、タルスキはウィーンを訪れる。ウィーンで集合論やウカシェヴィチの三値論理に関する講義を行ったタルスキは、出席していたウィーン学団のメンバーに多大な影響を与えることとなった。 特にクルト・ゲーデルとルドルフ・カルナップに深い感銘を与えたことは特筆に値する。当時まだ博士論文を提出したばかりだったゲーデルは、ウィーン学団の基本理念には賛同していなかったが、学団の会合やセミナーには参加していた。その関係でタルスキの講義に接したゲーデルは、このときタルスキと個人的に会い、博士論文で証明した一階述語論理の完全性定理について報告している。この定理は、後にタルスキによって発展させられたモデル論において、重要な意味を持つことになる。 またカルナップは、タルスキのメタ数学的手法をこのとき吸収し、これは後のカルナップの言語哲学に大きな影響を与えた。タルスキ、ゲーデル、カルナップの3人は奇しくもその後アメリカに渡り、そこで再会を果たすことになる。 1931年2月、タルスキはゲーデルより書簡を受け取る。この書簡でゲーデルは、後に不完全性定理として知られる結果について報告している。このころ、形式言語における真理定義について研究をすすめていたタルスキは、自らも不完全性定理まであと一歩のところまで迫っていたため、この結果に衝撃を受けた。タルスキとゲーデルは友人同志ではあったが、タルスキは終生ゲーデルをライバル視していたという。 1933年、W・V・O・クワインがワルシャワを来訪。クワインはこの直前に博士号を取得したばかりで、ヨーロッパ各地の哲学研究グループを来訪して回っている途中であった。このときクワインと親交を結んだことが、後のタルスキのアメリカ行きを決定付けることになる。 1934年には長男ヤンが誕生。同年、ウィーン学団のメンバーらによって組織された統一科学国際会議パリ大会(1935年)のための準備会議がプラハで催され、タルスキもこれに出席している。ポーランドからはタルスキのほか、カジミェシュ・アイドゥキェヴィチ、アドルフ・リンデンバウムらが出席。このとき初めてカール・ポパーと会っている。 1935年、統一科学国際会議に出席するためにパリを訪れる。このとき、科学哲学者のカール・ヘンペル、生物学者のジョーゼフ・ヘンリー・ウッジャーらと初めて会っている。特にウッジャーとはその後も親交を深め、後にウッジャーはタルスキの論文集を編集することになる。ウッジャーは記号論理学を生物学へと応用したことで知られているが、1937年に出版された彼の『生物学における公理論的方法』の付録は、タルスキによって執筆された。 この会議でタルスキは、「論理的帰結の概念について」および「科学的意味論の基礎」と題された二つの発表を行っている。前者は、論理的帰結関係のモデル論的定義の先駆をなす画期的なものだった。そして後者が、彼の名をこんにち不動のものとしている、形式言語における真理定義に関する発表である。しかし彼の真理論に対しては、タルスキに好意的と思われていた論理実証主義陣営からも批判的な意見が相次いだ。このため、さらなる討議のための非公式セッションが設けられ、白熱した議論が戦わされた。
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