批判的な意見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の句については、特にプロの俳人たちから多くの批判を集めてきた。加藤楸邨は一茶ほど専門の俳人から反発を受けた例は少ないとしている。一茶が世に持て囃されるのは俗情に訴えかけるからにすぎす、詩人としては低級であるという見方をされるのである。山本健吉も一茶の句にはあまりにも多くの私的な感情が含まれていて、これは一茶の句の汚点と感じられるとしている。 2万句を超える一茶の句の中には、上記のような批判を甘んじて受けざるを得ない句が相当数含まれている。加藤楸邨は一茶の句には詩的な共感ではなく、素材が持つ共感に振り回されてしまう句が見られると指摘している。また一茶の句が下手をすると単なる洒落に陥ってしまい、芸術の枠を飛び出しかねない危惧は、早くも師であり同志でもあった夏目成美が鋭く指摘していた。一茶は擬態語や擬声語、擬音語、いわゆるオノマトペを多用している。しかしオノマトペを句に上手に生かすというよりも、句の中心に置いてしまう傾向がある。その結果、オノマトペに句全体が引きずられてしまい、余韻や余情に乏しい、詩的内容に欠ける作品が多く見られる。もちろん一茶にとってオノマトペの多用に代表される俳句の表現方法における様々な挑戦は、型に嵌り切って窮屈なものになってしまっていた既成俳句の世界から脱出するための大きな武器になったが、反面、定型との厳しい葛藤を経ながら自らの作品を完成させていくという俳句本来の性質から遠ざかってしまうものでもあった。 栗山理一は、一茶は繊細な詩的センスを持ち合わせていながら、そのセンスを生かしてひとつの句を完成させるよりも、性急に句として完成させてしまう傾向を指摘している。様々な俳句の素材を貪欲に発掘し続けた一茶は、それら豊富な素材をパッチワークのように当てはめて、句を大量生産したと見ている。そのため一茶の作品における感性の出来不出来がはっきりと出てしまう結果となったとしている。 また一茶は高い次元での統一性を成立させることが無かったという指摘も見られる。栗山理一は一茶の句作は自然を純粋に見る目、諧謔をもてあそぶ姿勢、繊細な詩的センス、現実を見据えた情念など、様々な要素が混在したまま自己統一を図ることなく、もっぱら己の発想を強引に押し進め続けたとしている。加藤楸邨もまた、一茶は歪んだ我執が強い感情と無垢な童心に分裂したまま、事物をその都度反射的に受け入れ、バラバラな形で自己を封じ込めた作品を作り続けたとしている。
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批判的な意見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:42 UTC 版)
軍閥時代に孫文は、連省自治の実行と南北政府による平和的統一を主張した陳炯明に敗北した。その後に彼は「中国はアメリカとは異なる歴史と発展しているため、アメリカの連邦制度を導入することは困難である。」と主張した。彼の著書「三民主義」では次のように述べられている。 「 連邦制の考えは元々統一されていた中国を、100年前のアメリカのように、20以上の地域に分割し、再度統一するようなものであり、大きな間違いである。ただ、アメリカは世界の中でも豊かで力強い国になった。中国は豊かで力強いアメリカの連邦制を学ばなくてはならない。欧米人が市民権のために戦うのではなく、自由と平等のために戦うのと同じである。我々中国人は欧米人のスローガンを学び、自由と平等のために戦う革命に備えなければならない。 ...我々のいる東アジアにおいて、適切に「連邦」という言葉を使用するなら、中国と日本が連合するか、中国と安南、ミャンマー、インド、ペルシャ、アフガニスタンを統一国家とするくらいでなくてはならない。これらの国々はまだ統一されていないが、現時点でヨーロッパに抵抗できるほどアジアが強く繁栄し、大きな国家に統一されることは理にかなっている。内地十八省と東三省、特別区に関しては清朝で統一された。我々は清朝を倒して今日の共和国を成立させ、この領土を継承した。 」 孫文は、この考えにしたがって軍閥が割拠する中国の統一を望み、連ソ容共・扶助工農を主張した。
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批判的な意見
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第十五軍高級参謀の木下秀明大佐は、退却して来た三十一師団参謀長加藤国治大佐と面会した時の状況を回想録で次のように記している。『その晩、佐藤師団長罷免の軍命があったので朝これを加藤参謀長に告げたところ、加藤大佐は、今は上官ではないから事の真相を話そうといって、師団長の態度及び処置について一切を詳しく私に打ち明けて、統帥上、軍紀上、軍律上の痛憤止まる所を知らないと、真に憤慨した。』 土門周平によるとインパール作戦時には、上司の牟田口中将とだけでなく、部下の第33歩兵団長である宮崎繁三郎少将とも折り合いが良くなかった。宮崎は、食糧が十分でない前線部隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公然とインパール作戦の失敗を予言していたこと、テント暮らしの兵士を尻目に数寄屋造の豪華な師団長宿舎を造らせていたことなどを不快に感じていた。
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