すきや‐づくり【数寄屋造(り)】
数寄屋造り

数寄屋造り(すきやづくり)とは、日本の建築様式の一つ。一般的には茶事を好む者(あるいは広く和歌や生け花などを含めて風流を好む者)を「数寄者」と呼び、その好みにより母屋から独立して建てられた茶室のことをいう[1][2]。ただし多義的で、茶事を行うための場所という意味だけでなく、公家の自由な意匠を書院造に取り入れた意匠をいうこともあり、後者の場合は茶の湯とは必ずしも結びつかない[3]。大熊喜邦は「数寄屋」の名称は曖昧であるとして建築上の形式としては「茶式建築」の呼称を提唱した[1]。なお漢字では「数奇屋」と表記されることもある[1]。
歴史
数寄屋(数奇屋)の呼称が成立したのは近世初頭とされ、室町時代には数寄屋敷(数奇屋敷)という語があったが客間の意味であった[1]。
安土桃山時代になり母屋と別に建てられた独特の意匠をもつ茶室が「数寄屋」と称されるようになった[2]。『匠明』によると「茶之湯座敷」に「数寄屋」と名付けたのは堺の宗易(千利休)であるとする[1]。
「数寄」は「数奇」とも書くが、一定の比率形式の法則を指しているともいわれ、奇数関係との関連も指摘されているが、この「数奇」の法則は口伝であったため茶書からは明らかにはなっていない[1]。
江戸時代中期になると数寄(数奇)が俗語化し、奇品を偏愛する趣味を意味すると捉えられることを嫌い、茶書でもこれを避けようとする傾向がみられた[1]。
近代以降、数寄屋建築は新たに「数寄者」と呼ばれた財閥や個人資産家、近代建築家、茶道の家元といった担い手のもとで発展した[4]。
数寄屋独特の意匠
数寄屋建築は素材の持つ自然の風合いを生かした質素かつ洗練された意匠を特徴とする[2]。
一般に柱や梁の角は面皮付きとする(杉面皮柱など)[5][6]。長押は省くことが多いが、長押を付ける場合は磨丸太の皮付である[6]。また、礎石には自然石を用いる[5]。
京都の数寄屋書院では屋根は入母屋屋根であることが多く、銅板や一文字瓦で縁先まで葺きおろしていることが多い[6]。
一方、関東では段差を付けた寄棟であることが多く、瓦葺の場合には桟瓦で軒先を万十軒瓦とすることが好まれる[6]。
代表的な遺構
- 如庵(愛知県) - 独特の間取りで筋違の数寄屋や袴腰の数寄屋と称された[5]。
- 桂離宮新書院
- 修学院離宮
- 伏見稲荷大社御茶屋(重要文化財)
- 曼殊院書院
- 臨春閣(旧紀州徳川家藩別邸、三渓園へ移築)
- 角屋
京都工芸繊維大学の名誉教授で茶室や数寄屋建築の研究や建築家でしられる中村昌生は京都の数寄屋造りについて「京数奇屋名邸十撰」として以下の邸宅をあげている。野村碧雲荘、霞中庵、清流亭、對龍山荘、四君子苑、広誠院(旧広瀬家別邸)、虎山荘、山科山荘、嵯峨有心堂、土橋邸。
角川源義の元邸宅は近代数奇屋造りの邸宅として、国の登録有形文化財となっている(杉並区立角川庭園 )。
脚注
- ^ a b c d e f g 高田 克巳「近世における規矩の展開(第二報) : 数奇屋について」『大阪市立大学家政学部紀要』第4巻第2号、大阪市立大学家政学部、1957年3月、15-21頁。
- ^ a b c 伊藤 喜雄. “数寄の美〜美しい天井〜”. 文化のみち橦木館. 2023年11月1日閲覧。
- ^ 近藤 康子「近代建築家の茶室論にみる茶の湯の生活空間に関する研究」、京都大学。
- ^ 澤田 和華子「近・現代数寄屋建築に関する考察」『Keio SFC journal』第3巻第1号、慶應義塾大学湘南藤沢学会、2004年3月、10-33頁。
- ^ a b c 増田 一眞. “日本の木造架構史 第9回 近世の茶室”. 公益社団法人日本建築士会連合会. 2023年11月1日閲覧。
- ^ a b c d “平成25年度 歴史的風致維持向上推進等調査「他地域講師招致による数寄屋等建築技術の職人育成研修実施方策の実践的検討 (神奈川県小田原市)」 報告書”. 国土交通省. p. 74. 2023年11月1日閲覧。
関連項目
数寄屋造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
「茶の湯の座敷を数寄屋と名付事は、堺の宗益云いはじめるなり。」と『匠明』にある。格式を重んじる書院の茶から、俗世間を超越した精神的昂揚を重んじる侘茶が流行して行き、草庵の風情を意匠に取り入れた茶の為の空間が確立されていく。角柱を使い、長押(なげし)を打ち、壁や襖障子に極彩色の金碧障壁画を描く書院造りは、対面儀式にはふさわしいが、日常の生活にはやや堅苦しい。 茶の湯の流行の影響から、面皮柱(丸太の四面を垂直に切り落とし、四隅に丸い部分を残した柱)を使用し、室内も軽妙な意匠を凝らした。付書院の花頭窓とその上の障子の構成や欄間の釘隠しの意匠そして、襖障子には木版でシンプルな小紋文様をすり込んだ唐紙を使用するなど、さまざまなしゃれた意匠を工夫していった。 このような軽妙な意匠をした建物を公家達が好んで建てた。一般にはこれを数寄屋造りと云う。 茶の湯が中世から近世にかけて流行普及して行き、茶のための独自の建築空間である草庵茶室が造られるようになっていく。その意匠を書院造りに取り入れて数寄屋造りが完成していくが、一方で中世に盛んに行なわれた隠遁者の閑居や、風雅を好む公家達の別荘としての独自の意匠も大きく影響していった。 曼殊院は、京の北東の山裾に位置し、明暦二年に御所の北から寺地を移して建てられたものである。大書院と小書院とが連なり、ともに数寄屋風の軽妙な意匠で構成されている。 小書院は黄昏の間が主室で、二畳敷の上段の間があり、そこに床と書院を設けている。書院には花頭窓を開け、床の左には厨子を組み込んだ独自の違棚がある。黄昏の間の次の間が八畳の富士の間で、その西に一畳台目の茶室を設け、黄昏の間の裏手には、八窓席と呼ぶ茶室を付属させている。違棚や釘隠しや欄間などに凝った意匠を取り入れている。特に黄昏の間と富士の間の境の欄間には、菊の紋様を彫り込んだユニークなものである。 西本願寺黒書院は、曼殊院と同時代の建築で、明暦三年に完成している。黒書院は、対面所である白書院の奥に位置し、主室の一の間には正面右手に一間半の床を設け、床柱には面皮柱を使っている。 床の左の書院には花頭窓を開け、その左手前からやや離して違棚を設けている。透かし彫りの棚板や、植物をモチーフとした釘隠しの意匠、そして欄間の彫刻など独自の工夫した意匠で構成されている。 いずれも、同時代の建築であり寺院建築でもあるため、基本的には書院造りであり、その気品を失わず、数寄屋造りの自由で軽妙なしゃれた意匠を随所に取り入れて、日常の風雅な居室として使用された。
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