条坊制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 15:53 UTC 版)
条坊制(じょうぼうせい)とは、中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市計画で、南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路(坊)と東西の大路(条)を碁盤の目状に組み合わせた左右対称で方形の都市プランである。
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- 1 条坊制とは
- 2 条坊制の概要
条坊制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 12:52 UTC 版)
大宰府に条坊制による街区が存在することを想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛が初めてで、1937年(昭和12年)のことである。鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府の条坊の存在を指摘し、学界に注意を喚起した事は特筆される。鏡山案は現在もっとも知られているもので、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどがこの鏡山案である。 その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。 政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。 政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(地元では朱雀大路と呼ばれる)周辺を中心として存在する。これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。 政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこの頃に廃れたと考えられる。 こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。 もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が金田章裕や井上信正などによって提示されている。 2006年(平成18年)4月20日、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7キロメートル南で条坊の南端と推定される幅約8メートルの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。 井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。
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条坊制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 08:32 UTC 版)
詳細は「条坊制」を参照 日本の平安京の条坊制では、1坊が4保、1保は4町と定められていた。
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