坊制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐の都である長安と副都である洛陽などの大都市は、街を街路で碁盤目状に区切る条坊制がとられていた。街路で四方を区切られた場所を「坊」とし、約3mほどの高さの土塀で街路沿い四方を区切り、土塀には大きな坊で路が東西1路、南北1路で四門、小さな坊で東西1路で二門がつけられ、門から街路に出ることで他の坊に行くことができる。坊門は、坊の責任者である坊正が鍵を管理し、日の出前に開けられ、日没とともに門を閉めた。有力者や寺院などは直接、街路へ向けて門をつけることを許されていた。これは「坊制」と呼ばれる。 坊の責任者は、坊正と里正がいた。坊正は坊全体の責任者として、坊門を管理し、治安を維持する役目があった。また、坊の中にある100戸ごとに里正が任命され、戸数の把握や賦役の催促、犯罪の調査を行った。治安より財政が重視されたため、坊正より里正が重んじられた。 坊門以外に門をつける特権を持つものが余りに増え、中唐には街路の門戸が問題になったが門が減少することはなく、街路の一部を占有する「侵街」と呼ばれる事態が増加した。商工業の発展とともに、坊制はその機能を弱めていった。
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