歴史上の推定都市人口
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歴史上の推定都市人口(れきしじょうのすいていとしじんこう)は、世界史上の主要都市・都市域・都市圏の人口の変遷を推定したものである。
注釈
- ^ チャンドラーは世界最多の人口を有する都市は以下の通りであったと推定している:紀元前3200年以降アビュドス、紀元前3100年以降メンフィス、紀元前2240年以降アッカド、紀元前2075年以降ギルス、紀元前2030年以降ウル、紀元前1980年以降テーベ、紀元前1770年以降バビロン、紀元前1670年以降アヴァリス、紀元前1557年以降メンフィス、紀元前1400年以降テーベ、紀元前1205年以降メンフィス、紀元前1188年以降テーベ、紀元前668年以降ニネヴェ、紀元前612年以降バビロン、紀元前320年以降アレクサンドリア、紀元前300年以降パータリプトラ、紀元前200年以降長安、紀元前25年以降ローマ、340年以降コンスタンティノポリス、570年以降クテシフォン、637年以降長安、775年以降バグダード、935年以降コルドバ、1013年以降開封、1127年以降コンスタンティノポリス、1145年以降メルヴ、1153年以降コンスタンティノポリス、1170年以降フェズ、1180年以降杭州、1315年以降カイロ、1348年以降杭州、1358年以降南京、1425年以降北京、1650年以降イスタンブール、1710年以降北京、1825年以降ロンドン、1925年以降ニューヨーク、1965年以降東京。人口は人口上位十大都市参照。
- ^ モデルスキー (2003年)は、紀元前1000年までに人口が1万人に達していたかも知れない都市として、ペルーのカラル;スーダンのケルマー、ミルギッサ (ナイル河第二瀑布近傍);エジプトのコプトス、アビュドス、アシュート、アマルナ、ヘラクレオポリス、イティ・タウィ、ギーザ、ブト;キプロスのハラ・スルタン・テッケ (ラルナカ市街の西5 kmに位置する遺跡);イスラエルのイェルサレム;レバノンのビブロス;シリアのチャガル・バザール、ハモウカル;イラクのトゥトゥブ、シッパル、プズリシュ=ダガン、グアッバ (連合国家ラガシュを構成する都市);パキスタンのジュデイロ=ダロ (バロチスタン地方の遺跡)、ルレワラ (パンジャーブ地方の遺跡);インドのハスティナープラ、アヨーディヤー;中国のホータン、石家河、朝歌 (河南省鶴壁市淇県)を挙げている。またチャンドラー & フォックス (1974年)は、紀元前1000年までに2万人以上の人口を有した都市として、上でモデルスキーが挙げた諸都市のほかインドのタムラリプタを挙げている。
- ^ a b c ドブロヴォディ、マイダネツ、タリャンキの各遺跡は、キエフの南約40 kmに位置するドニエプル川流域の新石器時代のトリピリャ遺跡群に属し、1960年代以降漸次発掘された。最大のタリャンキ遺跡は450 haに渡って2,700の住居跡が、またマイダネツ遺跡は270 haに渡って1,575の住居跡が多層環状に並び、道路や周囲を取り囲む堡塁跡が見つかっている。紀元前2800年頃にはトリピリャ文化は文字を残さずに消失してしまった。
- ^ 先土器新石器時代A期 (紀元前8300–7300年頃) に建てられた世界最古の城壁跡を有する遺跡で、しばしば世界最古の都市と称される。
- ^ a b c d 炭素14の放射性炭素年代測定の改訂により、イェリコ (紀元前10500–9200年頃および紀元前8400–7500年頃) やバスタ (紀元前7500–6000年頃)、アイン・ガザル (紀元前9200–7500年頃) などの都市がより古い可能性が高いが、ここでは原著論文通りの年代で示す。
- ^ ペトラの北約5 kmに位置する先土器新石器時代B期末の遺跡。
- ^ ペトラの南約25 kmに位置する先土器新石器時代B期末の遺跡。
- ^ ユーフラテス川の西岸に位置する新石器時代の遺跡。現在アサド湖底に沈む。
- ^ ユーフラテス・ダムの西約30 kmに位置する、今日のアサド湖西岸に面する城壁都市遺跡。後期ウルク期に栄え、一説にはウルクの植民市であった。
- ^ 紀元前9500年頃の世界最古の農耕跡が残っていることで知られている。都市が発達したのは紀元前7400–6150年頃の2B期である。現在アサド湖底に沈む。
- ^ ワルカ遺跡 (ウルク) の北約20 kmに位置する242号遺跡。ジェムデト・ナスル期からシュメール初期王朝期を通じてウルクの衛星都市として栄えた。
- ^ ララクの位置については諸説あるが、モデルスキーはビスマヤ遺跡 (アダブ) の北東約13 kmに位置するアル=ハイヤド (1306号) 遺跡と批定している。ウルク期を通して栄えた。
- ^ 河南省舞陽県に位置する裴李崗文化の遺跡。賈湖契刻文字と呼ばれる文字が見つかっている。
- ^ 甘粛省秦安県に位置する、大地湾文化を代表する遺跡。
- ^ 現在の西安市臨潼区に位置する仰韶文化の遺跡。
- ^ 河南省霊宝市に位置する仰韶文化の遺跡。巨大な墓地が見つかっている。
- ^ ウルファ (エデッサ) の北約45 kmに位置する初期青銅器時代の遺跡。詳しくはTitris Hoyuk Archaeological Project参照。
- ^ テル・ハラフ遺跡の西約55 kmに位置し、トルコとの国境まで6 kmしか離れていない北シリアの都市遺跡。シュメール初期王朝第3期に栄えた。詳しくはTell Chuera - ein urbanes Zentrum in Nordsyrien参照。
- ^ タル・アファルの南約13 kmに位置する石造遺跡。紀元前2350年頃急速に発達し、直ぐに衰えた。
- ^ 碑文によると5,400人の戦士がサルゴンと食事を共にしたとされており、大きな町であったと推測されるが、その正確な場所は不明。アブ・ハッバ遺跡 (シッパル) の近辺に存在した推定され、後世のバグダードの地盤下に埋もれてしまっているという指摘もある。
- ^ シュメール王名表に登場するものの、正確な場所は不明。ディヤラ川流域のテル・アスマル遺跡 (エシュヌンナ) の近辺に存在したと推定されている。
- ^ ウル第三王朝の滅亡の年代について、モデルスキーは紀元前2004年を、モリスとチャンドラーは低編年である紀元前1950年頃を採用しており、それぞれのウルの推定全盛期がずれている。
- ^ ケシュの位置については諸説あるが、モデルスキーはビスマヤ遺跡 (アダブ) の北約40 kmに位置するテル・アル=ウィラヤ遺跡と批定している。シュメール初期王朝期を通して栄えた。なおケシュとキシュは別の都市である。
- ^ a b テルロー遺跡 (ギルス) はテル・アル・ヒバ遺跡 (ラガシュ) の西北西約25 kmに位置し、共に連合都市国家ラガシュを構成した。紀元前2350年頃にルガルザゲシュによってラガシュが破壊されたが、後のラガシュ第2王朝はギルスを都として栄えたため、ギルスのことをラガシュと呼ぶことがある。
- ^ スルグル遺跡 (ニナ) はテル・アル・ヒバ遺跡 (ラガシュ) の東南東約10 kmに位置する神殿を有する都市遺跡。ウル・ナンシェ王以降、連合都市国家ラガシュを構成する三大都市 (ラガシュ、ギルス、ニナ) の一つとなった。
- ^ カンダハールの北西約55 kmに位置する青銅器時代の城壁都市遺跡。銅鉱石やラピスラズリの交易で栄えた。
- ^ a b 堯王城と両城鎮は共に山東省日照市東港区に位置する、山東龍山文化の遺跡で、南西―北東に約30 km程離れて位置する。
- ^ a b 陶寺遺跡、方城遺跡、南石遺跡は山西省臨汾市に位置する中原龍山文化の都市遺跡。遺跡は汾河の東岸にあり、方城遺跡と南石遺跡は東西に隣接しているのに対し、陶寺遺跡は北に約20 km程離れている。
- ^ a b c ヒクソス王朝の都がおかれたアヴァリス (ハワレト) とラムセス2世が造営したペル・ラムセス (旧約聖書のラメセス) は、今日それぞれテル・アル=ダバー遺跡とカンティール遺跡に批定されており、南西・北東に約2 km離れて隣接している。エジプト第21王朝の都が置かれたサン・エル=ハジャル遺跡 (タニス, 旧約聖書のツォアン) はカンティール遺跡の石材を使って建てられたため、アヴァリスやペル・ラムセスの所在地と誤認された時期があった。
- ^ ヴィラ・ノヴァ・デ・サン・ペドロ文化の遺跡として最大の規模を有し、要塞を備えていた。
- ^ a b セビリアの北東約40 kmに位置するカルモナを指すと思われる。堀を廻らしていた。
- ^ a b c コルドバの北東約40 kmのモントロに存在するラネテ・デ・ロス・モロスの遺跡を指すと思われる。
- ^ 歴史的な大噴火により埋もれたサントリーニ島の都市遺跡。噴火時期として近年紀元前1628年頃が有力だが、モデルスキーは紀元前1500年頃とする低編年を採用している。
- ^ ワシュカンニはミタンニの都としてハブール川流域に造営されたと推定されるが、その正確な所在地は不明。テル・ハラフ遺跡の東約20 kmに位置するテル・エル・ファハリヤ遺跡に批定する説がある。
- ^ 諸説あるが、後のクテシフォンと同一と推定されている。
- ^ テル・アブ・ドゥワリ遺跡 (マシュカン=シャピル) はニッフェル遺跡 (ニップル) の北約35 kmに位置する城壁都市跡で、当時のティグリス川の畔に築かれ、ラルサ王朝の北方地域支配の要となる第2の都として栄えた。
- ^ テルメズの北約60 kmに位置する、堀を廻らした城壁都市遺跡。紀元前1500年頃から1000年頃まで栄えた。
- ^ 現在の陝西省宝鶏市岐山県に位置する青銅器時代の都市遺跡。古公亶父から文王の時代まで周の都が置かれたとされる。
- ^ a b c d e f 豊鎬遺跡 (豊京及び鎬京) は、現在の西安市中心部(隋代以降の長安城)から南西へ約12 kmに位置する。豊水を挟んで西に豊京、東に鎬京が造営され、紀元前771年まで西周の都が置かれた。一方現在の咸陽は西安市中心部の北西約15 kmに位置するが、秦の時代の咸陽城は現在の咸陽市街地よりも東へ約10 km離れた位置に建てられた。渭水を挟んだ南岸には漢代に長安城が建設され、今日の西安市中心部の北西約5 kmに位置する。漢代になると、渭水の北側に東西30 kmに渡って陵墓が造られ、右扶風郡の武帝の茂陵(咸陽市から西へ約20 km離れた現在の興平市)、左馮翊郡の高祖の長陵(咸陽市街地東側)などに陵邑が設けられ、衛星都市として多大な人口を抱えていたことが紀元2年の国勢調査の記録として残っている。
- ^ 紀元前1050年頃、洛水を挟んで南側に成周、北側に王城が建てられた。東周の時代には両都市を合わせて洛邑と呼ばれるようになる。
- ^ a b 東西約5 kmしか離れていない偃師商城遺跡と二里頭遺跡は共に現在の河南省洛陽市偃師区にあり、それぞれ二里岡文化、二里頭文化に属する。前者は『史記』に登場する殷(商)の最初の都とされる「亳」(西亳)、後者は夏王朝の都市と考えられている。
- ^ a b 殷墟と洹北商城は共に河南省安陽市殷都区にあり、洹水を挟んでそれぞれ南北に遺跡が展開している。洹北商城は1999年に発見された遺跡で、これまで安徽省宿州県に批定されていた、殷の三番目の都とされる『相』と推定されている。
- ^ チャンドラーは箕子が5,000人の兵を連れたという『史記』の記述を元に算出している。
- ^ モデルスキー (2003年)は、紀元1000年までに人口が10万人に達していたかも知れない都市として、ホンジュラスのコパン;フランスのネマウソス (ニーム)、アレラータ (アルル)、ヴィエンヌ、カルナントゥム;トルコのラオディケア、ゼウグマ、アミダ (ディヤルバクル)、イティル;シリアのセレウキアピエリア;イランのビシャープル、ペルセポリス;アフガニスタンのバクトラ (バルフ);インドのヴァッラビ、プハル (カヴェルパッティナム)、アヨーディヤー、ワーラーナシー;ミャンマーのパガン;カンボジアのヴィヤダプラ;ベトナムのオケオ、古螺;中国の会稽、江州 (重慶)、郢、陽翟 (禹州)、揚州、彭城 (徐州)、薛城、長平、薊城 (北京近辺);モンゴルの籠城を挙げている。
- ^ チャンドラー (1987年)は、紀元1000年までに人口10万人を超えた都市として46都市を挙げている。またチャンドラー & フォックス (1974年)では、人口が10万人を超えた都市として、スペインのカディス;ギリシャのコリントス;トルコのサルデス;インドのバリガザ、カーンチプラム、カジュラーホー、シュラヴァスティ、チャンパーなども挙げている。
- ^ アランヤの西約30 kmの位置する、ピシディア人によって建てられた都市で、鉄鉱で栄えた。ローマに併合後もしばらく栄えたが、紀元23年に地震で崩壊した。
- ^ 現在の陝西省宝鶏市鳳翔区で、紀元前677年に秦の徳公によって宮殿が建造されて以来、300年間に渡り秦の都が置かれた。
- ^ 現在の山西省運城市夏県で、戦国時代の魏の都が置かれた。
- ^ 現在の河南省洛陽市宜陽県で、戦国時代の韓の西の主要都市として栄えた。紀元前308–307年の宜陽の役では秦の武王の軍に対して30万人の兵が立て籠もったと伝えられる。
- ^ 現在の河南省許昌市鄢陵県に位置し、紀元前575年には鄢陵の戦いが開かれた地として有名。
- ^ a b アル=フスタート・ミスルは、現在のカイロ市内のオールド・カイロ地区に相当する。969年になってフスタートの町の北約3 kmの位置に隣接するミスル・アル=カーヒラ (カイロ、『勝利の町』) が建設された。なお旧約聖書に登場するオン (ヘリオポリス) の遺跡は、現在のカイロの北側に隣接するミスル・アル=ジャディーダの町にあり、また河を挟んだ西側にはピラミッド建設時代に栄えたギーザの町がある。更にその南約20 kmに古代メンフィスの都が置かれたミートラヒーナの村があることから、チャンドラーはこの一帯を現在まで都市域が連続して続いている世界最古の都市とみなしている。
- ^ マンザラ湖に浮かぶテル・ティニスの島に建設された都市で、古代エジプトのタニスの港が埋まったことにより代替として建てられた。
- ^ a b テル・ウマル遺跡 (セレウキア) はバグダードの南東約32 kmに位置し、ティグリス川を挟んで北岸にクテシフォンが建設された。ここに掲載したモデルスキーの推定値は、最盛期において両都市の人口を含む。
- ^ 現在のテヘラン中心部から南東へ約5 kmに位置する。
- ^ サンボール・プレイ・クック遺跡 (イシャナプラ、伊奢名城) は、真臘 (カンボジア) のイーシャナヴァルマン1世によって613年に都として築かれた。
- ^ モデルスキー (2003年)は、1900年までに人口が100万人に達していたかも知れない都市として、エスファハーン、ヴィジャヤナガル、泉州を挙げている。またRoland Fletcher (1998年)は1800年以前に人口が100万人を超えた都市として、表にまとめた都市のほか、コルドバ、ヴィジャヤナガル、エスファハーン、京都、イスタンブール、カイロを挙げている。またGeert Rombaut (2002年)は、コンスタンティノポリス、アンコール、メルヴなどについて人口が100万人を超えた可能性を指摘している。また最近になってモデルスキーは、本人のサイトで推定人口100万人以上の都市として松都 (開城) を追加した(2004年)。
- ^ 江戸の町人人口に関しては詳しいセンサスが残っている。1609年ごろにロドリゴ・デ・ビベロによって15万人と報告された江戸の人口は、1693年には町人人口353,588人、1721年に町人人口501,394人に達した。18世紀後半には町人人口は50万人を切ったが、19世紀に入って再び上昇し、1853年に575,901人の極大を迎えた (出稼人を含めると、1843年の587,458人が最大)。関山らは統計に残っていない江戸の武士人口を50万人と推定し (旗本御家人と家族12万人;その家来・従属者10万人、諸藩の在府者と家族18万人、幕府直属の足軽・奉公人等10万人)、江戸末期の極大時で総計110万人と見積もっている (関山直太郎 『近世日本の人口構造』 吉川弘文館 (1958年))。チャンドラーは関山の本を引用しながらも、町人人口に対して20万人ほどの武士人口 (町人人口の3/8) を上乗せするだけで江戸の人口としている (1854年の極大時で788,000人)。Shower (1989年)は、江戸の「市域人口」として100万人を採用しており、モデルスキーもこれに従っている。詳しい江戸の町人のセンサス人口と推定方法については、江戸の人口を参照。
- ^ 1500年の人口についてSmith, Michael E. (2005); "City Size in Late Post-Classic Mesoamerica", in Journal of Urban History, Vol. 31 No. 4, May 2005, pp. 403-434.は、テノチティトランを212,500人、テスココを24,100人と推定している。これに対してチャンドラーは、テノチティトランを80,000人、テスココを60,000人と推定しており、アスカポツァルコ、トラコパン、テナユカなどを別の都市域とみなしている。
- ^ チャンドラーの定義する大坂の人口は、1590年以降堺の人口を含む。一般的には元禄年間まで京都の人口が大坂を上回っていたとされる。
出典
- ^ a b Kruts, S. I. Paleoantropologia Severnogo Prichernomorya epokhi rannego metalla (Paleoanthropology of the North Pontic Region in the Period of Early Metal), In Pitskhelauri, K. N., and Chernykh, E. N. Eds., Kavkaz v sisteme paleometallicheskikh kultur Evrazii, Metsniereba, Tbilisi, 1989, pp. 146–156.
- ^ Cressford, C. Estimating the Neolithic Population of Çatalhöyük, In Hodder, I. Ed., Inhabiting Çatalhöyük: Reports from the 1995-99 Seasons (Çatalhöyük Research Project), Cambridge, UK: McDonald Institute for Archaeological Research, 2005, pp. 323–326.
- ^ a b c Kuijt, I. People and Space in Early Agricultural Villages: Exploring Daily Lives, Community Size, and Architecture in the Late Pre-Pottery Neolithic, J. Anth. Arch. 19, 75–102 (2002).
- ^ Moore, A. M. T.; Hillman, G. C.; Legge, A. J. Village on the Euphrates: from Foraging to Farming at Abu Hureyra, Oxford, UK: Oxford University Press, 2000, pp. 273–275.
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