夏_(三代)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 夏_(三代)の意味・解説 

夏 (三代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 14:24 UTC 版)

前2070年頃 - 前1600年頃

二里頭文化の領域
公用語 漢語(中国語
首都 陽城
xxxx年 - xxxx年
xxxx年 - xxxx年
変遷
建国 前1900年頃
滅亡 前1600年頃
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

(か、拼音: Xià、紀元前2070年[1] - 紀元前1600年[注釈 1])は、史書に記された中国最古の王朝夏后氏ともいう。夏・三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代のから末代のまで14世17代471年間続き、湯王に滅ぼされたと記録されている。

考古学的比定

実在性

夏が存在したとされる年代の遺跡としては、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師県(えんしけん)翟鎮二里頭村で発見された二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷は、この二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがって、これが史書に伝わる夏に相当すると考える学者も存在する。

しかしながら、二里頭の都市文化は、都市の実像を推定できる文章が刻まれた出土資料の存在が確認されず[2][3]、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかは不明である。中国では二里頭遺跡を文献史料が伝える「夏王朝」と同一視する研究者が多い一方、日本では遺跡と文献上の「夏王朝」を同一視することには慎重を期するのが望ましいとする見解が主流であり[4][5][6][7]、日本の考古学者宮本一夫は「夏に当たる年代に政治勢力らしきものが実在した事」が証明された事が、史書で伝えられる「夏王朝が実在した事」を証明しえないと述べている[8]。台湾在住の中国古代史学者の甘懐真国立台湾大学)は、「夏王朝の存在は疑わしい」と述べており[9]、中国の考古学者の中にも論文で二里頭文化に言及する際に「夏王朝」という単語に代えて、「夏文化」などの曖昧な表現を用いる研究者がいる[7]。また、日本の古代中国史学者落合淳思は、文献資料に示された古代夏の統治範囲は「九州」すなわち沿海地域の兗州青州徐州、あるいは長江流域の揚州荊州梁州などにわたっているのに対し、二里頭文化の政治勢力は黄河中流域を支配したにすぎないことから、伝説上の夏王朝と二里頭文化には直接の関係はないとし、「日本では、このことがよく理解されて」いるとしている[10]

二里頭遺跡

二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定され、当時としては世界有数の大規模集落である。トルコ石で表現された、銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。

「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は、回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。この構造は、後の中国歴代王朝の宮殿構造に近く、歴代王朝ではここで宮廷儀礼を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。

ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。

また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、(あわ)、小麦大豆水稲五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。

歴史

以下は主に『史記』「夏本紀」、『竹書紀年』による。

禹の創業

夏王朝の始祖となるは、五帝の一人顓頊の孫である。帝の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められたとされる[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという[11][12][13]

舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年のに服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。

禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴いによる朝政の補佐が行われた。

なお「」という漢字はもと「虫」と同じ形で、毒蛇を象った象形文字である[14][15][16]。『説文解字』では「厹 (禸)」という文字に従うと説明されているが、これは誤った分析である。「禸」の部分は初期の形にはなく、後の時代に追加された意味を持たない装飾的な筆画である[17]

最初の世襲王朝

禹の崩御後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子であるを帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている。

啓の崩御後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った(これを太康失邦という)」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちは「五子之歌」を作った。

「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」 — 「五子之歌」、『史記』「夏本紀」より

『竹書紀年』に依れば、太康を国から追い出したのは羿であるとされる。

五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。

太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。都は斟鄩、元年は己丑、在位年数七年。在位五年秋九月庚戌朔に日食が起こり、また諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。

『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。

『竹書紀年』に依ると、中康の子であるが跡を継いだ。都は帝丘と斟鄩、元年は戊戌、在位年数は二十八年。その在位八年に夏王朝を実質的に支配していた羿がその妻の玄妻(純狐氏)と臣下の寒浞に殺された。二十八年には相自身も寒浞とその子のによって弑された。

相の遺児である少康は母である后緡が都でのクーデターから逃れたため、彼女の出身地である有仍国で生まれた。

少康はやがて成長すると、その息子であるや夏王朝の遺臣である伯靡・有仍氏・有鬲氏などと共に寒浞や澆・を討ち滅ぼした。これを「少康中興」という。顧頡剛を始めとする「古史辨派」はこれを「『光武中興』を正当化する為に人が作った話である」という説を提唱している。

少康の子である予の都は老丘、元年は己巳、在位年数は十七年。在位八年に東海と三寿を征伐し、九尾の狐を得た。

予の子はである。都は不明、元年は戊子、在位年数は四十四年。在位二年に九夷が来訪した。

槐の子はである。都は不明、元年は壬申、在位年数は五十八年。在位十三年に東海にて大魚を得た。

芒の子はである。都は不明、元年は辛未。在位年数は二十五年。在位十二年に有易氏を討伐した。

洩の子は不降である。都は不明、元年は乙亥、在位年数は二十五年。在位六年に九苑を討伐した。

不降の弟はである。都は不明、元年は戊戌、在位年数は十八年。

扃の子はである。都は不明、元年は己未、在位年数は八年。在位八年に太陽が十つ同時に出現した。

衰退と滅亡

不降の子で廑の従兄弟、第14代帝は孔甲である。都は西河、元年は乙巳、在位年数は九年。性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏王朝の徳治にも翳りが出たとされている。

孔甲の子はである。都は不明、元年は庚辰、在位年数は三年。在位元年に孔甲が滅ぼした豕韋氏を復国させた。

皐の子はである。都は不明、元年は乙酉、在位年数は七年。在位七年に泰山で地震があった。

発の子はである。都は斟鄩と河南、元年は壬辰、在位年数は三十一年。人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の天乙 (湯) を呼び出し夏台に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、遂には桀を倒した(鳴条の戦い)。桀は鳴条に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。

近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が起きていたことがわかっており、史書にも桀年間の天候不順が記録される。合わせて、夏の遺跡である望京楼遺跡からは殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外は全て破壊され、出土する遺骨も多くが手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するなど、深い加害のあとがしのばれる。このようなことから、実際には力によって、殷は夏にとって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する[18]

天乙は帝位に即位すると夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』による)に封じた。代に於いては、に於いて諸侯に封じられている。

後継民族・国家

夏の後継といわれ、またそのように自称した民族に以下がある。

河南省禹州市は紀元前1世紀になっても夏人の町として有名だった。『史記』貨殖列伝では、潁川(えいせん)と南陽は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移した。南陽は西は武関に通じ、東南は漢江長江淮河を受ける。宛(えん・南陽市)は亦都会で、その風俗は奇矯、職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれていると記されている[19]
杞国
杞県に在ったとされる。
越国
福建省広東省広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は夏人の末裔を自称していた。またの墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。紀元前333年、越国はに滅ぼされ越人は四散した。
百越
倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされる(下記「#倭国との関連」参照)。
匈奴
『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった[20][21]

帝の一覧

日名(諡号 在位年数 備考
文命 10? の子
- 39? 禹の子
太康[1] (不詳) 4? 啓の子、失国する。
中康 (不詳) - 太康の弟
- - 中康の子
  (無王) 40 東夷寒浞簒位する。
少康 (不詳) - 相の子
- - 少康の子、中興する。
- - 予の子
- - 槐の子
- - 芒の子
- 不降 - 洩の子
- - 不降の弟
胤甲 - 扃の子
孔甲 (不詳) - 不降の子、廑の従兄弟
- - 孔甲の子
- - 皐の子
履癸 - 発の子

1. ^ 「康」=「」。

名称・呼称

「夏」という王朝名は後世の呼称である。

墨子」では「夏」の通仮字として「雅」を当てている。

漢字学者の藤堂明保は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出している[22]

倭国との関連

  • 」の紋の法被―慶長宗論・慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧の日経の故郷(現在の茂原市)には、大きな「禹」の紋が背に縫い付けられた法被が遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。

脚注

注釈

  1. ^ 紀元前2000年頃からとする説もある。

出典

  1. ^ 古代史”. www.gov.cn. 中华人民共和国年鉴 (2021年4月9日). 2022年3月15日閲覧。
  2. ^ 春青趙; 文生秦 著、後藤健 訳、劉煒 編『図説中国文明史1 先史 文明への胎動』創元社、2006年、206,246頁。 
  3. ^ 淳思落合 著、小早川三郎 訳『古代中国説話と真相』筑摩書房〈筑摩選書〉、2023年、61,69頁。 
  4. ^ 西江清高「先史時代から初期王朝時代」『中国史 1』山川出版社〈世界歴史大系〉、2000年10月、61頁。 
  5. ^ 飯島武次『中国考古学概論』同成社、2003年、419頁。 
  6. ^ 工藤元男 著「長江文明と黄河文明」、並木頼壽; 杉山文彦 編『中国の歴史を知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2011年1月、17頁。 
  7. ^ a b 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年、75-78頁。 
  8. ^ 宮本一夫 2005, pp. 307–366p.
  9. ^ 甘懐真 (2009年6月). “東北亞古代的移民與王權發展:以樂浪郡成立為中心” (PDF). 成大歴史學報 (国立成功大学) (36號): p. 79. オリジナルの2020年2月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200216221821/http://www.his.ncku.edu.tw/chinese/uploadeds/364.pdf 
  10. ^ 落合敦思(2015)『殷 中国史最古の王朝』中央公論社
  11. ^ “Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty” (英語). Science 353 (6299): pp. 579-582. (2016-08-05). doi:10.1126/science.aaf0842. http://science.sciencemag.org/content/353/6299/579 2016年8月5日閲覧。. 
  12. ^ Greshko, Michael文、高野夏美訳 (2016年8月9日). “解説:黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在? 「ノアの大洪水に相当するほど重要」と研究者、中国最古の夏王朝の裏づけか”. ナショナル ジオグラフィック 日本版. https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/080800048/ 2016年9月9日閲覧。 
  13. ^ Sheridan, Kerry (2016年8月5日). “中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか” (日本語). AFP. https://www.afpbb.com/articles/-/3096402 2016年9月9日閲覧。 
  14. ^ 張世超 1996, pp. 3394–5.
  15. ^ 季旭昇 2014, pp. 955–6.
  16. ^ 林志強等 2017, p. 21.
  17. ^ 劉釗 2006, pp. 23–4.
  18. ^ 『NHKスペシャル 中国文明の謎第2集 漢字誕生 王朝交代の秘密』 2012年、3:98-
  19. ^ 岡田英弘 2004, p. 46
  20. ^ 内田吟風ほか訳注 1971 [要ページ番号]
  21. ^ 後漢書六夷伝のうち南匈奴伝 2009年9月16日閲覧 [リンク切れ]
  22. ^ 藤堂明保 2006 [要ページ番号]

史書

参考文献

上記の日本語訳:岳南『夏王朝は幻ではなかった - 1200年遡った中国文明史の起源』朱建栄、加藤優子訳、柏書房、2005年5月。 ISBN 978-4-7601-2729-0 
  • 藤堂明保『漢字の起源』講談社〈講談社学術文庫 1792〉、2006年11月。 ISBN 978-4-06-159792-1 
  • 宮本一夫『中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝』講談社、2005年。 ISBN 4-0627-4051-6 
  • 徐朝竜『長江文明の発見 - 中国古代の謎に迫る』角川書店〈角川選書 290〉、1998年2月。 ISBN 978-4-04-703290-3 
  • 張世超; 孫凌安; 金国泰; 馬如森 (1996). 金文形義通解. 京都: 中文出版社 
  • 劉釗 (2006). 古文字構形学. 福州: 福建人民出版社. ISBN 7-211-05215-5 
  • 季旭昇 (2014). 説文新証. 台北: 芸文印書館. ISBN 978-957-520-168-5 
  • 林志強等 (2017). 《文源》評注. 北京: 中国社会科学出版社. ISBN 978-7-5203-0419-1 

関連書籍

  • 岡村秀典『夏王朝 - 中国文明の原像』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年。 ISBN 978-4-06-159829-4 
  • 貝塚茂樹伊藤道治『古代中国』(第四刷)〈講談社学術文庫〉、2001年。 ISBN 4-06-159419-2 
  • 松丸道雄、永田英正『中国文明の成立』講談社、1985年。 ISBN 4-06-188505-7 
  • 『苗族民話集 中国の口承文芸2』村松一弥 編訳、平凡社〈東洋文庫〉、2003年。 

関連項目

外部リンク


「夏 (三代)」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「夏_(三代)」の関連用語

夏_(三代)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



夏_(三代)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの夏 (三代) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS