四神相応とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 言葉 > 表現 > 相応 > 四神相応の意味・解説 

しじん‐そうおう〔‐サウオウ〕【四神相応】

読み方:しじんそうおう

地理的景観四神存在にふさわしいすぐれた所。東に流水青竜)、西に大道白虎)、南にくぼ地(朱雀)、北に丘陵玄武)が備わる土地平安京地勢これにあたるという。四地相応


四神相応

読み方:シジンソウオウ(shijinsouou)

四神相応した最良地勢


四神相応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 01:52 UTC 版)

四神相応しじんそうおうは、東アジア中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応しちそうおうともいう。なお四神の中央に黄竜麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国朝鮮と日本では大きく異なっている。


  1. ^ 高藤 聡一郎『仙道風水術 尋竜の法』ISBN 4054003974
    本書の平安京の風水についての解説は、1994年6月5日にNHK総合で放送された『よみがえる平安京』のダイジェストとなっている。
  2. ^ この文書の末尾には「謹議三教不斉論 劉晏述」とあり、あるいはこれが空海が我が国に齎した「三教不斉論」と同じものではないかと考えられている(牧田諦亮『劉晏の三教不斉論について』1961)。劉晏(715〜780)は唐の政治家で、安録山の乱以降の唐の財政を立て直した人物。
  3. ^ 平安京四神相応説は鎌倉時代成立の『平家物語』が初出。そこには「此の地の体を見候うに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」とのみあり、ここに四神を具体的形象に充てる説明はない。加藤 (2016), p. 213
  4. ^ 平安京の四神を山川道澤に結びつける説の初出は正和3年(1314年)の奥書を持つ『聖徳太子平氏伝雑勘文』。この書は延喜17年(917年)成立の『聖徳太子伝歴(聖徳太子平氏伝)』の解説書でそこに山城国葛野の地形を「南開北塞、陽南陰北、河徑其前、東流成順」とあるのを解説して「左青竜は東より水南に流るなり。前朱雀は南に池溝あるなり。右白虎は西に大道あるなり。後ろ玄武は山岳あるなり。之をいう、四神具足の地と」と記す。加藤 (2016), p. 217
  5. ^ 四神を鴨川等具体的地名に宛てる説は、江戸時代の地誌『山城名所寺社物語』(享保元年)で「左青竜は加茂川なり。今の千本通り是右白虎なり」と二神のみ明示するのが最も古い。四神すべてを地名に比定するのは現在のところ昭和24年(1949年)発行の日本古典全書『平家物語』(朝日新聞)の頭注(冨倉徳次郎)に「宇多村の地勢の、東賀茂川、西大通、南鳥羽の田地、北比叡山のあるところから、四神相応の地と言った」とあるのが最も古く、現在の通説「山=船岡山・川=鴨川・道=山陰道・澤=巨椋池」は、1974年の矢野貫一『京都歴史案内』(講談社)に初めて現れる。加藤 (2016), p. 219-220
  6. ^ 江戸時代の「都名所図会」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。
  7. ^ 目崎茂和『図説風水学』東京書籍、東京、1998年、170-175頁。 
  8. ^ a b c 加藤 (2016).
  9. ^ 現在では、「西 大道」を奈良期にはここを通っていなかった山陰道に宛てるのには異論があり、また「北 高山」を船岡山に充てるのも低山に過ぎ、冬季に冠雪を見せる北山に当てる説がある。また「南 沢畔」を下鳥羽の遊水池(鳥羽離宮の地)とする案がある。巨椋池は遠すぎるため無理があることを論拠としている。加藤 (2016), p. 218
  10. ^ この道(木島大路あるいは木嶋大路)は、史料的にも考古学的にも確認されていない。
  11. ^ 足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。
  12. ^ 足利健亮「平安京計画と四神の配置」『景観から歴史を読む:地図を解く楽しみ』日本放送出版協会〈NHK人間大学〉、1997年、31-41頁。 
  13. ^ 京都新聞 2006年1月29日掲載の記事「京の風水」”. 2023年1月1日閲覧。
  14. ^ 黄永融『風水都市:歴史都市の空間構成』学芸出版社、1999年、103-104頁。 
  15. ^ (この説の図)
  16. ^ 三浦国雄『風水・中国人のトポス』平凡社ライブラリー、1995年。ISBN 4582761054 
  17. ^ 田中貴子『安倍晴明の一千年』講談社、東京、2003年、82-107頁。 
  18. ^ 『作庭記』における「四神=山川道澤」の対応は『周書秘奥営造宅経』にも同様の記述があり、『作庭記』のこの部分は中国から請来された書物から引用されたと推測される。また、『簠簋内伝』では、四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。
  19. ^ 繁田信一「陰陽師と四神相応の地相」『本郷』第65号、東京:吉川弘文館、18-21頁、2006年9月。 
  20. ^ a b 多ヶ谷 (2007).
  21. ^ 「十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。」(『日本紀略』延暦十三年の条)[1]
  22. ^ 「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」(『日本書紀和銅元年(708年)2月戊寅の詔)「四禽」は四つの動物、すなわち四神のこと。
  23. ^ 「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる一方で、それを四神相応とする以上、別の解釈がとられていたことになる。
  24. ^ 右白虎には道ではなく「有大沢」となっており、前朱雀は沢畔ではなく「有森」であるなど。前川佳代「平泉の苑池 ―都市平泉の多元性―」『平泉文化研究年報』第1号、岩手県教育委員会、盛岡、59-70頁、2001年。 
  25. ^ 平城京は、鎌倉時代後期の『詞林采葉抄』では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金鳥」が対応付けられていることがわかる。
  26. ^ 山川道澤の四神相応が8世紀後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については今のところ裏付けがないことに留意が必要である。
  27. ^ 「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな東京湾は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな甲州街道も単に西に延びているだけである。(珍誉のいう山川道澤の四神相応では、西の大道は南行している必要がある。)
  28. ^ 西国街道は東から西に伸びているわけで、これを白虎として瀬戸内海を朱雀とするなら西国街道沿いには四神相応でない場所の方が少ないであろう。
  29. ^ 「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。


「四神相応」の続きの解説一覧



四神相応と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「四神相応」の関連用語

四神相応のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



四神相応のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの四神相応 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS