平安時代から江戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 18:49 UTC 版)
「二本木 (熊本市)」の記事における「平安時代から江戸」の解説
肥後の国府(飽田国府/二本木府中)がおかれていた頃は、人々から 四神相応の都のようだと言われていた。北に北岡・花岡山・万日山、東は白川、西は白坪・城南などの平野、南は白川河口を背負いあたかも平安京のようだと称したという。 北岡神社などの「北岡」という地名は 国府があった二本木よりも北側にある丘陵地帯であったため。 律令政治の崩壊とともに一時肥後の中心地としての機能は失うが、二本木はその後も大きな集落として継続し、古国府(古府中)と呼ばれることになる。 二本木遺跡からは華南三彩 トラディスカント壺[つぼ](中国南部で16世紀末から17世紀前半ごろに作られたとみられる)が出土しているため南蛮貿易を行っていたとみられる 肥後熊本藩第7代藩主細川治年の正室の謡台院(埴姫)が住んでいたとされる二本木御殿。その眺望図が熊本市により保管されている。 西南戦争の熊本城攻めの間、西郷隆盛が温泉に入っていたというエピソードが残っている。 熊本市飽託郡誌: 附県下名都名勝によると耕地は畑が多く隣にある春日村と共に野菜類を育てるのに向いている土地だった。とはいえあまり利益が出ていたとは言えないと記されている。 北岡神社の祭りのひとつ神幸行列では最終的に旧社地である二本木グランド付近が最終地であった。この祭りの様子は「歳序雑話(天和三)土屋半弥著」 にも記されている
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