平安時代〜室町時代の永見氏とは? わかりやすく解説

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平安時代〜室町時代の永見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 00:45 UTC 版)

永見氏」の記事における「平安時代〜室町時代の永見氏」の解説

平安時代後期13当主の永見貞春は保元の乱、平治の乱参戦している。さらに室町時代20代当主の永見貞俊は在原業平の子孫の在原師喬の三男で、母方永見氏養子になったと伝わる。 22当主の永見清貞は饗庭次郎号し現在の愛知県西尾市吉良町大字饗庭に居を構えた三河守護の吉良家重臣大河内氏大河内貞重の娘を妻に迎えた応永15年1408年)、四代将軍足利義持から神主領などを安堵する朱印状送られている。 25当主の永見貞守の弟の永見為房と、為房の子永見貞吉は共に三河豪族水野氏仕え、為房は家計郷城主・足助氏討ち取ったりと、たくさんの功を挙げている。子の貞吉高津波(現在の愛知県刈谷市)の搦手守っていた。 天文16年1547年)、吉良家支族である今川家当主今川義元家臣戸田宣光によって、知立神社社殿など焼失された。28当主永見守重は天文18年1549年)に水野氏との関係を深めるために、水野氏菩提寺である楞厳寺田畑寄進した。また田原城主・毛受照時の娘を室とするなど周辺豪族関わり深めた29当主永見貞英水野忠政の娘を室に迎え、さらに貞英の妹2人の内一人水野信近に、もう一人重原城主山岡河内守に嫁がせた。また、貞英の弟・永見貞近を徳川家康祖父松平清康仕えさせていた。天文23年1554年正月に、今川松平軍によって、重原城を落とされた。この際城内にいた永見氏の娘(城主嫁いだ貞英の妹?)が自害している。重原城主山岡氏信仰心篤く焼失した知立神社重原勧請したり、多宝塔再建したという。 永禄3年1560年)、桶狭間の戦い今川義元討たれると、逃亡する今川軍を追う織田軍によって永見氏居城知立城は落城した。

※この「平安時代〜室町時代の永見氏」の解説は、「永見氏」の解説の一部です。
「平安時代〜室町時代の永見氏」を含む「永見氏」の記事については、「永見氏」の概要を参照ください。

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