平安時代〜室町時代の永見氏
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「永見氏」の記事における「平安時代〜室町時代の永見氏」の解説
平安時代後期の13代当主の永見貞春は保元の乱、平治の乱に参戦している。さらに室町時代の20代当主の永見貞俊は在原業平の子孫の在原師喬の三男で、母方の永見氏の養子になったと伝わる。 22代当主の永見清貞は饗庭次郎と号し、現在の愛知県西尾市吉良町大字饗庭に居を構えた。三河守護の吉良家の重臣の大河内氏の大河内貞重の娘を妻に迎えた。応永15年(1408年)、四代将軍足利義持から神主領などを安堵する朱印状が送られている。 25代当主の永見貞守の弟の永見為房と、為房の子永見貞吉は共に三河の豪族・水野氏に仕え、為房は家計郷城主・足助氏を討ち取ったりと、たくさんの功を挙げている。子の貞吉は高津波(現在の愛知県刈谷市)の搦手を守っていた。 天文16年(1547年)、吉良家の支族である今川家の当主今川義元の家臣・戸田宣光によって、知立神社の社殿などを焼失された。28代当主永見守重は天文18年(1549年)に水野氏との関係を深めるために、水野氏の菩提寺である楞厳寺に田畑を寄進した。また田原城主・毛受照時の娘を室とするなど周辺の豪族と関わりを深めた。 29代当主永見貞英は水野忠政の娘を室に迎え、さらに貞英の妹2人の内一人を水野信近に、もう一人を重原城主・山岡河内守に嫁がせた。また、貞英の弟・永見貞近を徳川家康の祖父の松平清康に仕えさせていた。天文23年(1554年)正月に、今川・松平軍によって、重原城を落とされた。この際、城内にいた永見氏の娘(城主に嫁いだ貞英の妹?)が自害している。重原城主の山岡氏は信仰心が篤く、焼失した知立神社を重原に勧請したり、多宝塔を再建したという。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、逃亡する今川軍を追う織田軍によって永見氏の居城・知立城は落城した。
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