平安時代から室町時代
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平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山(延暦寺)、高野山(金剛峯寺)と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。 平安末期には、霊場としての戸隠は京の都でもよく知られていたらしく、『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山…」とうたわれるまでになっていた。 当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉時代以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。 室町時代には戸隠神社で天台・真言両宗の法論闘争が発生、応仁2年(1468年)天台派の宣澄法師が真言派に暗殺された。後世に至って宣澄の供養のため、宝永5年(1708年)に宣澄社が建立され、村人によって毎年8月16日の中社の例祭に「宣澄踊り」が奉納されるようになった。
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平安時代から室町時代
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最初に城を築いたのは、長谷川吉武というこの地に勢力を張っていた武士団の頭領であった。家臣の永井宗久に命じて築城したが、おそらく当時は砦に近いものであったと想像される。 その後、後醍醐天皇:元弘3年/光厳天皇:正慶2年(1333年)、小弐頼尚がこの地に再度築城した。南朝:興国6年/北朝:康永4年、貞和元年(1345年)、小弐氏の家臣(分家)・筑紫統種が城主に任じられ、その後数代に渡り筑紫氏の居城となった。
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平安時代から室町時代
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「松山城 (豊前国)」の記事における「平安時代から室町時代」の解説
伝承では、740年(天平12年)、大宰権帥・藤原広嗣が朝廷に反旗を翻した際(藤原広嗣の乱)に築いたとされる。時代は下り、940年(天慶3年)の藤原純友の乱に際し、神田光員の居城となった。その後は神田氏が在城していたが、1157年(保元2年)に平康盛によって滅ぼされた。松山城は康頼の三男・平信盛が居城とした。1185年(文治元年)、信盛の子・平吉盛は壇ノ浦の戦いに従軍して敗北し、入水自殺を遂げた。1196年(建久7年)頃には、豊前国に下向してきた城井氏の始祖である宇都宮信房が支配した。ここでも松山城は激しい攻防の舞台となり、長野氏当主・長野直盛が松山城を支配した。 1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)、後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州に下向、それに従う少弐頼尚は松山城を攻略し、その子・少弐頼房を城主に据えた。 周防国の大内氏が豊前国を含む北九州地方へ勢力を伸ばすと、豊前国の要衝として松山城を重視し、重臣であった杉氏の杉興信を守護代に任じ、城主とした。1398年(応永5年)には大友氏鑑が大友親世に反乱を起こした際に氏鑑方の攻撃によって落城、城代の杉光治は討死した。大内氏は松山城奪回後、安芸国の国人であった天野顕義が入城して、その後に討死した光治の兄である杉弘信が入った。その後は杉氏が在城して続き、1551年(天文20年)までその支配が続いた。
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