平安時代と大衆の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:24 UTC 版)
「東大寺の歴史」の記事における「平安時代と大衆の台頭」の解説
平安時代になると、東大寺の伽藍の各所で荒廃が見受けられるようになった。当時の日本の建築技術を度外視した巨大な木造建築であり、その巨大な伽藍は風雨の害を受けやすい。さらに東大寺の寺内の自治力が下がってきたことも原因として挙げられる。大仏そのものも腰の部分に亀裂が入ったり、地震で頭部が転落するなどの災厄に見舞われたが、大仏殿に支柱を立て、大仏の後部に支えの土を盛り、頭部は吊上げて固定するなどしてしのいでいる。 さて、東大寺への真言宗の浸透は、伽藍の荒廃を一層進めた。つまり、僧ひとりひとりが貴族など権力者と結びついて加持祈祷、呪詛を行い、各人が所属する僧坊での私生活に重きが置かれるようになったのだ。また、さらに僧侶、僧坊の個別化、分散化、世俗化がすすみ、一人ひとりが住居する私僧坊が発展する。すると、東大寺全体の管理が疎かになってしまう。合せて、10世紀末頃には、造東大寺所(前造東大寺司)の知事僧も勤務を怠けるようになり、東大寺は南大門や羂索院双倉、大仏殿後戸の傷みが次第に激しくなり崩壊の危機に瀕することとなる。 しかしこの悪しき風潮は、11世紀中頃に改められた。境内の有様に危機感を覚えた僧は改修に勤しみ、寺の財政を一本化し、造東大寺所を完全に傘下に置いて組織を東大寺修理所に改めた。この改組は組織の規模を大きく小さくしたが、官の手を離れて政所の傘下に収めたことで働きが良くなった。この修造は、11世紀中頃から1160年代の南大門再建まで続き、境内の堂宇の多くが修理修造された。永長元年(1096年)には朝廷からの命令もあり、さらに修繕が進んだ。天永元年(1110年)からは国の主催の下に大仏殿の大改修も行い、前年には造東大寺司も復している。この時代、世間からは「ておのゝおとする所」(『大鏡』)と呼ばれ、寺側もこれを受けて「東大寺の斧音絶えざる由、世を以つて伝へ申すところなり」と自らを表現している。また、伊賀国の黒田荘・玉瀧荘などに代表される東大寺領の荘園の整備が進んだのもこの時期である。 そしてこの大修造時代が、東大寺を中世寺院へと脱皮させ、荘園経済に移行させたのだと新井孝重は説いている。伊藤正敏は、この時期の東大寺の境内、東大寺郷(東大寺七郷)は都市化、宅地化した都市であるとし、東大寺を含む中世寺社境内に発達した都市を「境内都市」と名付けた。この時代の寺社は「無縁」の地として、老若男女貴賤関係なく集住していたが、東大寺も例外ではなく、僧侶自身も境内地を私有し売買するなど俗人の生活を営んでいた。当地は商業も発達し、子院の楞伽院では油屋、金融の経営も行われている。
※この「平安時代と大衆の台頭」の解説は、「東大寺の歴史」の解説の一部です。
「平安時代と大衆の台頭」を含む「東大寺の歴史」の記事については、「東大寺の歴史」の概要を参照ください。
- 平安時代と大衆の台頭のページへのリンク