平安時代の「洛」=「洛陽」と「長安」
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「洛中」の記事における「平安時代の「洛」=「洛陽」と「長安」」の解説
古くは平安京域内を指して「京中」と呼んだが、鎌倉初期から京中に代わって「洛中」の語が頻出するようになる。この「洛」は「洛陽」の一字を採ったもので、後の京都の基礎となった左京を中国の都「洛陽」に擬え、対して、右京(朱雀大路から西側の部分)を同じく「長安」と呼んだとされ、後に右京が廃れたことから、市内(実質的に左京)を洛中(らくちゅう)、外側を辺土、後に洛外(らくがい)と呼ぶようになったとされる。洛陽、長安を左京、右京に分けて使ったとする説は、今のところ平安遷都から500年余経た鎌倉時代末期頃に洞院公賢によって書かれた『拾芥抄』の「京都坊名」の項に「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記されているのが、最も古い。この「左京洛陽・右京長安」説はこれ以降さまざまの著書に引用され、そのことから「洛中とは左京のこと」との主張が生まれて、現在ではあたかも定説になった感がある。 これに対し、平安時代の文献からの疑問もある。平安時代の文学では左京右京を問わず平安京を「洛陽」あるいは「長安城」と呼んでおり、例えば平安初中期の詩文(「本朝文粋」「和漢朗詠集」など)に「洛陽」「長安城」あるいは「洛城」と現れるが、一つの詩文の中に「洛陽」と「長安」が併記される例は見当たらないからそれらがそれぞれ左京と右京を指したとは言えず、「城」をつけて呼んだところを見れば、共に「平安城」に代わる文学上の雅称として(つまり共に平安京全体を指す言葉として)使われたとするほうが自然である。また遷都後間もなく洛陽と長安の坊名を借りて名付けられたと考えられている「銅駝坊」「教業坊」「陶化坊」などの坊名も、必ずしも「左京は洛陽」「右京は長安」を示していない。その後も「左京を洛陽、右京を長安」と称した事実は平安期の文献では確認できないから、洛陽・長安の区別は少し後、すでに「洛中」や「入洛」などの語が成立していた鎌倉時代以降のことと考えられる。また「小右記」長和4年(1016年)6月25日条では西京(右京)を「西洛」とも呼んでおり、やはりここでも右京を含めた平安京全体を指して洛陽と呼んだことが伺える。平安末期の辞典『色葉字類抄』では「洛 ラク 又作雒 京也」と「洛とは京」と明確に定義付けるし、享徳3年(1454)の奥書を持つ『撮攘集』にも都の異名を並べて「京城 都 皇州 京帥 洛陽 長安 禁城 帝畿」と洛陽・長安ともに都の意と記す。都を指して「洛陽」という言い方は早くから定着していたが、のちに右京が廃れたことにより都の範囲が狭まり、実質的に「京都(洛陽)=左京」という状態になっていたから、対して詩文に現れた「長安」を右京に付会して、上記「拾芥抄」の「左京洛陽・右京長安」説が成立したとも考えられる。この考え方に立つと「洛中」が必ずしも左京域のみを指した語でなかったことになる。 以上、平安時代の諸文献に基けば、一般に信じられる「平安初期に(施政者により)右京は長安、左京は洛陽と名付けられた」という説は真実とは言えず、鎌倉末期の拾芥抄の「東京号洛陽城、西京号長安城」の記述に基いて江戸時代に広く流布した説と考えられる。したがって平安時代には「洛陽」(および「長安」)とは実質的にはどうあれ都全域指す呼称であって、それを語源とする「洛中」という言葉も左京に限らぬ都全域を指した言葉であったとすべきであろう。
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