平安時代の出羽城介
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平安時代中期以降の有職故実を記した書によれば、まず出羽介を通常の除目で任じ、その後に臨時の宣旨を下して出羽城介に任命した。出羽城介に対しては、城介任命とほぼ同日に秋田城務についても別に宣旨を下して命じた。城介任官は外記宣旨、城務に関しては弁官宣旨なので、同じ日に二途異なる機関を経由して宣旨が下されたことになる。 赴任に際しては、国守である受領と同じく天皇の前に召され禄を与えられた。陸奥国における鎮守府将軍と同じく、正式には受領ではないが、職権待遇は受領に準ずる特別な地位である。 9世紀後半から10世紀にかけては、元慶の乱(878年)をはじめとして蝦夷の反乱、衝突など軍事的危機が出羽国方面で頻繁に起こり、秋田城を拠点にした軍勢が対応に追われた。出羽城介は鎮守府将軍と並ぶ北方防衛の担任者として重責を担った。また秋田城介を経て鎮守府将軍に任命されるという武官のルートも出来た。 陸奥国で安倍頼良が台頭したとき、陸奥守藤原登任は、桓武平氏繁盛流大掾氏一族である出羽城介大掾繁茂(繁成/重衛)とともに頼良を攻めた。この結果生じたのが永承6年(1051年)11月の鬼切部の戦いで、登任・繁茂らは大敗した。この後、出羽国では出羽城介が任官されなくなった。一方、秋田城介に任じられた繁茂の子孫は、城氏(越後平氏)と称して、一族の奥山氏とともに越後に土着した。 康平4年(1062年)の前九年の役の最終局面では、出羽清原氏が源頼義の軍に加わって主戦力となったが、その指揮官の名字には、清原氏の本拠とされる山北とともに、秋田郡周辺の地名が見え、出羽城介廃止の影響が見てとれる。
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