平安時代の宗教と女性
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「日本の女性史」の記事における「平安時代の宗教と女性」の解説
女人禁制と宗教倫理 民衆では『日本霊異記』に大安寺に女性が参詣する話があるように一般女性にも開かれた寺であったことが分かる。最澄は僧が守るべき戒律として「盗賊、酒、女等を禁ぜしめ」と記しているが、これは女性との性行為の意味で女性の入山を禁じたものではないと考えられる。しかし高野山や比叡山などの霊山は男性修行者の場となり女人禁制となっていく。12世紀ごろに成立したとされる『本朝神仙伝』には尼が金峰山に登ろうとするが戒地であるため果たせなかったという説話があり、この頃までには女人禁制が成立したと考えられる。女人禁制となった山の麓には高僧の母の伝承を伴う尼公堂や女人堂を建て境界とするようになる。また女人禁制の山麓の里や寺の周辺には里坊を中心に修行をする僧の母などが集まる。彼女たちは僧衣の洗濯をするなど、修行生活を背後から支える役割を担っていた。 平安時代になると戒律制度にも性差が生まれる。得度をする官尼の数は減り、公式な法会の機会も減少した。平安京内の東寺・西寺は共に僧寺であり尼寺は無い。また古来の尼寺も衰退していき僧寺に変えられるなどした。一方で私的に出家をする女性はむしろ増加し、10世紀頃から夫の死後に後家尼となる例が増えた。彼女らの活動の拠点は尼寺ではなく僧寺の周辺、女人結界の周辺にあった庵などであった。臨終などに際しては完全剃髪とし、「僧になる」と称した。これは女性は一度男性に生まれ変わらなければ往生できないとする「変成男子」などの女性観によるものである。 儒教的価値観 『続日本後紀』には死別した夫の墓の傍らに小屋をつくって長年夫の霊に仕えた女性を節婦として顕彰した記述がある。この価値観は儒教に見られるもので、こうした模範的家庭道徳を広まることで徐々に男尊女卑へと教化されたと考えられる。 民間信仰 病気の原因に物の怪が関わっているとする思想から、10世紀以降に病気の治療や出産で物の怪を祓うための ヨリマシ(依巫)と呼ばれる役割があった。ヨリマシには女房や女童(めのわらわ)が選ばれ、物の怪を憑依させることで病が治ることを目的とした。11世紀以降、次第に巫女などによるヨリマシの職業化が進んだ。 斎王 天皇の皇女が代替わりまで伊勢神宮に仕える斎王(斎宮)の制度は、平安時代も続いた。平安京の賀茂神社でも斎王が選ばれるようになり、斎院と呼ばれた。しかし朝廷の財政難により維持が困難になり、最終的に中世の建武の新政で斎王が選ばれなくなった。
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