平安時代の家族制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
皇族 父系制は天皇家から始まる。皇位が父系的に継承されるのは9世紀である。9世紀初頭になると天皇家の母方親族を外戚と認識するようになり双系制が崩れる。渡来人を母系とし天智天皇の孫である桓武天皇は、諸氏に系譜書を提出させて政治的な父系継承を強化した。10世紀には官職や役職は父子で世襲することが一般的になり、政治力を行使できない女性の地位は低くなっていく。 貴族 平安時代前期では貴族の女性は自身が官職を得て俸禄を得て家を支えるなど経済的に自立しており、婚姻形態や居住形態にも明確な規定はなかったと考えられる。10世紀になると長女が婿取りをするようになり、妻方居住婚を経て独立居住婚が慣例となる。また次女以下は妻方家の支援のもと独立居住婚をした。9世紀から10世紀にかけて女性が夫以外の男性と性関係を持つことがタブーとなり、一夫多妻制が成立する。一夫多妻制では同居妻が嫡妻と見なされたが、他の女性も妾ではなく次妻とされ、子も同等に扱われた。しかし、次第に嫡妻の子が官職後継者になっていき次妻の立場は低下していく。経済的には女性も両親からの支援や相続により財産を所有していて後世ほど夫に従属していなかったが、女官の地位が低下していくと男性と経済的格差が広がっていく。女性にとって結婚の目的は父母亡き後の生活保障の意味があり、離婚権が夫にあったことを合わせると平安時代中期には家父長制が成立していたとも見なされる。平安時代後期になると婚姻形態は当初より独立居住婚となり、儀式や家屋などの支援は全て夫方両親によって行われる。また荘園等の家業が固定すると男子への相続が主となり、夫への従属を強めていく。 庶民 庶民の家にも変化があったことが史料から分かる。9世紀初頭成立の『日本霊異記』では「家長(いえぎみ)」「家室(いえとじ)」と記されていた夫婦が、12世紀初頭に成立した『今昔物語集』では「家の主」「家の女」に変化しており、家の代表が男性に限られている。この頃でも夫婦別財が原則であり田畑の相続は男女平等に行われ、女性開墾主も存在したが、『平安遺文』によると10世紀以降は女性による土地売買の記録が減り、経済活動は夫の責任で行われるようになり、女性の経済的地位が低下したと考えられる。
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