平安時代の即位記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 02:23 UTC 版)
「大友皇子即位説」の記事における「平安時代の即位記述」の解説
平安時代の文献には、大友皇子の即位が数多く記されている。 もっとも早いのは10世紀に書かれた『西宮記』で、天智天皇10年の「12月に帝位に即く」とある。 『扶桑略記』は、「天智天皇10年10月に大友太政大臣が皇太子に立った。12月3日に天皇が崩じた。同5日に大友皇太子が帝位についた」と記す。 『年中行事秘抄』には、大友皇子が「皇太子となり帝位に即く」とある。 『立坊次第』(紹運要略)には、天智天皇10年に「同年12月5日帝位に即く」とある。 『水鏡』は、「10月には大友皇子を東宮に立てた」、「天智天皇10年12月3日に失せたため、同5日に大友王子が位を継いだ」とする。 『大鏡』は天智・天武の継承では大友皇子の即位に触れないが、別のところで「大友皇子はやがて帝になり、帝のまま失せた」と記す、また「この皇子は太政大臣の位で、つぎにはやがて同じ年のうちにみかどとなった」とも書く。 このように、平安時代には大友皇子即位が事実として受け入れられていたと言ってよい。しかし、7世紀の壬申の乱からみて時代が下ることは否定できず、また、数の多さは部分的には『扶桑略記』の影響力の産物でもある。『大鏡』は大友皇子が天武天皇になったとする単純な誤りがあり、史料としての信頼性に疑問がある。その点は『水鏡』なども同じで、天智が行方不明になったのでその2日後に大友皇子が即位したとする。急な日程は前後の諸天皇と著しく異なり、不審がある。
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