鬼切部の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)
『陸奥話記』によると、11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため[要検証 – ノート]、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。この鬼切部の戦いでは秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守となった。 永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。また天喜元年(1053年)には頼義は鎮守府将軍となった。
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