塔頭
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塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。
塔中(たっちゅう)、塔院(とういん)、寺中(じちゅう)、院家(いんげ)とも。
やがて禅宗以外の宗派でも塔頭に類する塔台を建立するようになったり、後に改宗や廃絶したものの塔が残ったりなど現存例は混然としている。
塔頭を主管する役又はその役につく僧を塔主(たっす)という。
歴史
中国の禅寺では本来、住持を隠退した者は、東堂・西堂の僧堂で雲水たちと共同生活をする決まりとなっていた。時代が降ると、大寺の中に小庵を結びそこに住する者が現れるようになったが、一禅僧一代限りの措置であった。
そのような中国の慣習が日本に伝わると、開山など、禅寺にとってとりわけ重要な人物の墓所としての塔頭・塔院と同一視されて永続的な施設となり、日本独自の塔頭という存在が認知されることとなった。さらに時代が降ると塔頭はより広義的なものになり、墓所だけでなく高僧が住んでいた小庵やゆかりのある地に、その偉業を後世に伝えるために設立されるようになり、禅宗に限定されたものでもなくなっていった。
室町時代、五山では庵居の風習が盛んになり、多くの塔頭が作られた。やがて塔頭を拠り所に門徒が僧兵などを集めて勢力を持つようになり、幕府は塔頭造営を規制したこともある。安土桃山時代に入ると、各地の大名が自身が教えを受ける僧の隠居所を寄進して小寺院と称する例が増え、これらも後に塔頭とされた。そのためこうした塔頭は寺院としてだけではなく、住居としての側面も持つ。
塔頭は由来に示すとおり末寺の1つで独立した寺ではなかったが、塔頭由来の師の門下として門徒の格別の崇敬を集めて独自に檀那を持ち寺領を抱えて経営するまでになり、実質的にはその門派の独立した一寺としての発展をみた。明治時代以降は末寺になって独立している場合が多いが、大規模な塔頭を多く抱える大寺院の領内では、さながら寺院の立ち並ぶ一つの街のような光景を見ることができる。この例としては京都府の大徳寺などが著名である。
構造
時代により異なるが、室町期には主に塔所と昭堂(しょうどう)を中心に、方丈、庫裡や寮舎などを配し、小僧院の形をとる。これは後に一般的な小寺院の原型となった。また当時流行した茶の湯の影響もあり、茶室が備えられることが少なくない。その他枯山水の庭園など、典型的な禅宗方丈建築を現在に伝えるものである。
利用
京都の安養寺 (京都市東山区)の塔頭などでは、江戸時代には座敷を料理茶屋に貸し、「遊楽酒宴の宿」に変化していった[1]。舞妓を呼んだり、博打をする者もあり、客は酒宴に興じるほか、境内の林泉が織りなす美しい景観や楼閣から見下ろす京都市街の眺望を楽しんだ[1]。安養寺には、多福庵也阿弥など阿弥の名がつく塔頭が6つあり、「六阿弥」「円山の六坊」と呼ばれて賑わった[2]。明治時代にはそのうちの3つが合併して旅館「也阿弥」となり、長寿院左阿弥は現在も料亭「左阿弥」として存続している[3]。
名称
塔頭は本来小院であるため、山号を持たない。その代わりに「~院」「~庵」といった称号をもつ。これらの名称によってその塔頭の来歴をおおよそ分類することができる。(例外もある)
- 「~院」(院号) … 大名家などが、帰依する僧を開祖として創建したもの。
- 「~寺」(寺号) … 民衆からの浄財によって創建されたもの。
- 「~庵(菴)」(庵号) … 僧の住んでいた庵を塔頭としたもの。ただし真珠庵(一休宗純を開祖とする)のように、実際に居住していた訳ではないが、ゆかりある地に創建されたものも存在する。
- 「~堂」(堂号)
- 「~坊」「~房」(坊号、房号)
- 「~殿」(殿号)
- 「~閣」
- 「~舎」
- 「~軒(軒号)」
- 「~楼(楼号)」
- 「~蔵」
- 「~塔」
- 「~社」
脚注
参考文献
- 『岩波仏教辞典 第二版』岩波書店 1989[疑問点 ]
- 『世界大百科事典 第二版』平凡社 2006
関連項目
子院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:33 UTC 版)
中之坊 - 高野山真言宗の子院。かつての名称は中院で當麻寺最古の子院。中将姫剃髪の地と伝承され、中将姫の仏法の師である実雅の開山という。また、役行者が開いたともいう。春の牡丹は特に有名である。また、陀羅尼助発祥地の一つとされる。大和十三仏霊場第6番、大和七福八宝めぐり札所。庫裏 書院(重要文化財) - 江戸時代初期建立の書院造。南西の「御幸の間」(後西天皇が行幸したと伝える)が主室で、他に北西に「鷺の間」、北東に「鶴の間」、南東に2室の「侍者の間」がある。「侍者の間」の南は西が4畳半、東が6畳の茶室である。「御幸の間」と「鷺の間」の障壁画は曽我二直菴の筆。 茶室「丸窓席」 - 4畳半の茶室は北側に大きな丸窓を設けることから「丸窓席」と呼ばれる。後西天皇の行幸に合わせて片桐石州が作った。 庭園「香藕園」(国指定史跡・名勝) - 築地塀で内庭と外庭に分かれ、内庭は當麻寺の東西両塔を借景とした池泉回遊式庭園。外庭は山の斜面に造園されている。後西天皇の行幸に合わせて片桐石州が改修したと伝える。竹林院群芳園、慈光院庭園と並んで大和三庭園のひとつに数えられている。 剃髪堂 - 中将姫が剃髪したお堂という。 中将姫誓いの石 - 中将姫の足跡が残っているとされる石。 写佛道場 霊宝館 ぼたん園 稲荷社 竜王社 表門 西南院 - 高野山真言宗の子院。白鳳12年(683年)に當麻寺の裏鬼門を守護する子院として建立された。西塔の別当である。関西花の寺二十五霊場第21番、仏塔古寺十八尊第8番札所。牡丹と石楠花が多い。本堂 庫裏 庭園 - 江戸時代初期に作庭されたものだが、後に一音法印によって改修された。西塔を借景とする池泉回遊式庭園。 表門 奥院 - 浄土宗の子院。応安3年(1370年)、知恩院12世の誓阿普観が知恩院の本尊であった法然上人像(重要文化財)を遷座し、本尊として創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。法然上人二十五霊場第9番、西山国師遺跡霊場第14番札所。本堂(重要文化財) - 慶長9年(1604年)建立。 阿弥陀堂 庫裏 大方丈(重要文化財) - 慶長17年(1612年)建立。 庭園「二河白道の庭」 - 作庭家中根金作の作。 茶室「慈教庵」 宝物館 浄土庭園 - 池泉回遊式庭園。 ぼたん園 鐘楼門(重要文化財) - 正保4年(1647年)建立。 鐘楼 松室院 - 高野山真言宗子院。客殿(国登録有形文化財) 不動院 - 高野山真言宗子院。 竹之坊 - 高野山真言宗子院。 念仏院 - 浄土宗子院。 護念院 - 浄土宗子院。當麻寺練供養会式の菩薩面や装束の一切を管理している。庭園は牡丹と躑躅が多く、北庭の枯山水、西庭の池泉鑑賞式庭園、南庭の双塔園の3つがある。 来迎院 - 浄土宗子院。 極楽院 - 浄土宗子院。 千仏院 - 浄土宗子院。 宗胤院 - 浄土宗子院。 紫雲院 - 浄土宗子院。 奥院鐘楼門(重要文化財) 奥院本堂(重要文化財) 西南院
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