平安時代から中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:03 UTC 版)
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。なお、中近世の日本において大きな歴史的事件の舞台とはなっていないが、温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。 一方、南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、および幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けるが1392年に南北朝合一。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。 奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。 戦国時代には筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。
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