文化住宅
「文化住宅」とは、大正時代の中期から昭和にかけて流行した応接室や玄関にドアをとり入れた和洋折衷の住宅のことを意味する表現である。
「文化住宅」の基本的な意味
明治時代の日本では、財閥や政治家の一部の住宅で洋風の住宅が建てられるようになったが、庶民は和風の住宅であることが一般的であった。大正11年(1922年)の3月に東京の上野で開催された「平和記念東京博覧会」の展示企画「文化村」において、14棟の「文化住宅」が建てられ一般にも広まっていった。この「文化村」の展示が、関東でいう「文化住宅」の由来である。「文化村」では、アメリカから輸入したツーバイフォー住宅など、現在で言うところのモデルハウスのように実物の住宅を展示するという斬新なコンセプトで人気を博したという。文化村の展示には、外観にこだわりはないが居間や客間、食堂は必ず椅子座式という募集要項があり、生活や住まいの改善を居間を中心とした間取りで広めるという目的があった。文化住宅は和風の建築様式でありながら、玄関にドアが設置され洋風デザインの応接間が設けられるなど和洋折衷の造りが特徴である。博覧会に展示された「文化住宅」には、博覧会での展示により認知度が上がったことで、東京などの都市だけでなく地方の富裕層にも広がっていき、東京近郊の宅地開発とともに多くの平屋や2階建ての文化住宅が建築された。
関西の「文化住宅」にはっきりした定義はないが、第二次世界大戦後の高度経済成長期、昭和30年代には、大阪へ地方から多くの人々が働き口を求めて移り住んだ。その人々に住まいを提供するために建てられたのが「文化住宅」と言われている。当時の大阪市内は既に人口や住宅も多かったため、寝屋川や東大阪といった周辺地域に多く建てられた。それまでの集合住宅は、玄関はひとつ、風呂がなくトイレや台所は共同で各部屋は中の廊下で繋がっているものが多かったが、「文化住宅」は各部屋に独立した玄関とトイレ・台所が設置された。それまでより「文化的」な暮らしができるという意味で「文化住宅」と呼ぶようになったとされている。
時を経て、街の発展とともに大阪の文化住宅は改築されたものも多く、1995年の阪神淡路大震災では耐震性の低さから倒壊するなど現在では残っている文化住宅は少なくなっている。ただし、震災の被害が少なかった大阪の南部や東部、京都や奈良などでは震災前に建築された文化住宅が残っているものも多い。
「文化住宅」の語源・由来
関東の和洋折衷の文化住宅は、大正11年(1922年) 3月に東京上野で開催された「平和記念東京博覧会」の住宅展示場「文化村」に展示された14戸の「文化住宅」が由来と言われている。一方、関西の場合は、それまでの長屋などに代表される集合住宅の多くが共同のトイレや台所であったのに対し各戸にそれらの設備が設けられたことから、従来の集合住宅よりも文化的な生活をおくることができるという理由から「文化住宅」と呼ばれるようになったとされている。
「文化住宅」と「アパート」の違い
関西の「文化住宅」と呼ばれる建物は、間取りは2K、風呂はないもののトイレや台所が各戸に設置された木造のメゾネットタイプが主流である。ただし、メゾネットタイプではなく上下階が独立したものも文化住宅と呼ばれるものも存在する。一般的に、アパートとは木造や軽量鉄骨造などで建築された集合住宅を指し、設備や間取りは多種多様である。アパートと呼ばれる建物は、2~3階建の低層階であることが多い。
「文化住宅」の使い方・例文
・大阪の文化住宅で暮らしていると、下町の人情を感じる。・家賃が安いのが文化住宅の魅力のひとつだ。
・文化住宅をリノベーションして、自分好みの住空間を作る。
・案内された文化住宅で、建築された当時に想いを馳せる。
・文化住宅のこぢんまりした間取りが好みだ。
ぶんか‐じゅうたく〔ブンクワヂユウタク〕【文化住宅】
文化住宅
文化住宅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/02 05:45 UTC 版)
文化住宅(ぶんかじゅうたく)と呼ばれるものには以下の二つがある。
- 主に大正時代中期以降に流行した、洋風生活を取り入れた一般向け住宅のこと。和洋折衷住宅である。
#洋風住宅としての文化住宅を参照 - 近畿地方で、主に1950年代 - 1960年代に建てられた集合住宅の一種。
#近畿地方の集合住宅としての文化住宅を参照
洋風住宅としての文化住宅
明治時代に西洋館が建てられるようになるが、もっぱら財閥や政治家の一部の住宅であり、一般には和風の住まいに暮らすのが当たり前であった。大正デモクラシーの自由な雰囲気の中に大衆文化が成立し、住宅においても洋風の生活に対する憧れが広まっていった。
1922年(大正11年)、上野で平和記念東京博覧会が開かれ、展示企画として「文化村」が造られた。14棟の「文化住宅」が建てられ、モダンで合理的な住まいのあり方を示す一種のモデルルームであった[1]。文化住宅という語は1921年(大正10年)ごろから一部の雑誌で使われていたが、この博覧会をきっかけに一般に広くアピールしたと考えられる[1]。
昭和時代に入って「文化住宅」という名称で一定のパターンができあがった。住宅本体はこれまで同様の和風住宅であるが、玄関脇に洋風デザインの応接間が造られる、といったものである。阪神間や東京近郊地帯(世田谷、杉並など)の宅地開発とともに数多くの文化住宅が造られた。
愛知万博で人気を得た「サツキとメイの家」(となりのトトロ)も文化住宅風である[1]。
近畿地方の集合住宅としての文化住宅


近畿地方における集合住宅の呼称[2]。分家住宅とも書いたりする。
1950年 - 60年代の高度経済成長期に使われ始めた用語で[2]、主として当時に建てられた瓦葺きの木造モルタル2階建てで、1 - 2階の繋がったメゾネット、あるいは各階に長屋状に住戸が並んだ風呂なしアパートを指す[3]。実際には、各戸に独立した玄関があり、トイレも台所も風呂もついている[2] 連棟式集合住宅(例えば1棟4戸など)が多い。
「文化」(「ん」にアクセント)と略称されることもある。この種の住宅が「文化住宅」と呼ばれたのは、それまでの長屋や下宿屋など集合住宅の多くが便所や台所を共用としていたのに対し、これらの設備を各住戸に独立して配置したことから、従来の集合住宅よりも「文化的」という理由である[2]。こちらの「文化住宅」の起源ははっきりしない[2]。
近畿にも戦前の「洋風住宅としての文化住宅」は阪神間など大正から昭和初期に開発された地域に多数存在する(阪神間モダニズムを参照)[4]が、言葉としての「文化住宅」は一般に普及せず、もっぱらこちらの意味が広まった。
近年は老朽化が進み、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では多くの「文化住宅」が倒壊し、住人の多くが犠牲になった。これらが密集した地区の再開発が老朽化に伴うリノベーションとも絡んで課題となっている。
脚注
- ^ a b c 文化住宅にしひがし(1ページ目) - 朝日新聞デジタル(ことばマガジン) - ウェイバックマシン(2022年1月29日アーカイブ分)
- ^ a b c d e 文化住宅にしひがし(2ページ目) - 朝日新聞デジタル(ことばマガジン) - ウェイバックマシン(2021年12月24日アーカイブ分)
- ^ その時代の建築に限らず、現在もいわゆる「マンション」ではない安アパートの異称として用いられており、比較的近年に建てられた軽量鉄骨造や風呂付きの物件でも「○○文化」と命名されている例がある。
- ^ 大阪鉄道が1927年(昭和2年)から藤井寺駅近くに分譲を開始した住宅地について報じた1929年(昭和4年)1月15日付の大阪朝日新聞には、「約六万坪にわたり勤人向けの文化住宅百五十余戸を建てる目的ですでに建設に着手し」という記述が見られる(永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P21)。
関連項目
「文化住宅」の例文・使い方・用例・文例
文化住宅と同じ種類の言葉
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