ひ‐むろ【氷室】
ひむろ【氷室】
読み方:ひむろ
謡曲。脇能物。宮増(みやます)作といわれる。朝臣が丹波の氷室山に立ち寄ると、氷室守(もり)の老人が氷を都へ運ばせるいわれを語り、やがて氷室の中から氷室明神が現れ、采女(うねめ)が氷を運ぶのを守護する。
ひょう‐しつ【氷室】
氷室
姓 | 読み方 |
---|---|
氷室 | ひむろ |
氷室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/01 04:16 UTC 版)


17世紀後半に建造され、夏のデザートやワイン、肉・魚などを冷蔵するために氷が蓄えられていた。

氷室(ひむろ、ひょうしつ、英語:ice house)とは、氷や雪を貯蔵することで冷温貯蔵庫として機能する専用施設のこと。古代より世界各地で利用されてきた蓄熱施設である。電気機器による冷蔵や冷房が普及した現代では激減したものの、節電や酒・食品の熟成、文化的な行事などを目的に、気候により氷雪が溶けて無くなってしまう高温の時季がある地域や一年を通して氷雪が存在しない地域で利用され続けている。
構造
掘った穴と敷き詰め包み込むための藁だけでできたものや、氷雪の上に断熱材(藁、断熱シートなど)をかぶせるだけのものもある。このようなタイプは日本では雪蔵(ゆきくら、ゆきぐら)あるいは雪中貯蔵庫(せっちゅうちょぞうこ)などと呼ばれる。この他に、春の到来による気温上昇や雨水の影響をより受けにくい洞窟や横穴、さらに恒久的使用に耐える石造りやドームなどで構築された近代的なアイスハウスまで様々な様式がある。いずれにしても伝統的土木技術によって建造あるいは設置されるものであり[注釈 1]、冷蔵庫(機械式冷温貯蔵庫)が発明される以前は現在よりも一般的な冷温施設であった。
日本の「雪蔵」「雪室」は、酒の貯蔵によく用いられている[1]。この他に生鮮食品を含む食品の保存のほか、氷雪そのものが納涼や医療に活用されることも珍しくなかった。
氷室は英語ではアイスハウスとよばれ、イギリス(イングランドやスコットランド)、アメリカ合衆国、イタリア、ペルシアなどにも存在している[注釈 2]。
日本の氷室
日本においても、春~秋に製氷する技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要があった。正確な記録は残されていないが、洞窟や地面に掘った穴に茅葺などの小屋を建てて覆い、保冷したとされる。氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。このように天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、長らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。
歴史的には『日本書紀』仁徳天皇62年条に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ:現在の奈良県天理市福住町)へ狩りに出掛けたとき、光るものを発見したとの記述が最初の登場とされる。奈良時代の長屋王宅跡から発掘された木簡には「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっている[注釈 3]。
『日本書紀』の孝徳天皇紀に氷連(むらじ)という姓(かばね)が登場し、朝廷のために氷室を管理した職が存在したことがうかがえる。例えば、朝廷の要職を占めた家の一つ賀茂県主氏(主に賀茂神社の神官を輩出した、亦元豪族か。賀茂神社祭神は鴨家の氏神)の家系図には「氷連」「氷室」の記述が見られる。
律令制においては氷室、製氷職は、宮内省主水司に属した。その後も氷室とそれを管理する職は各時代において存在し、明治時代になって消滅した。
北陸地方をみるに、江戸時代から毎年6月1日(旧暦)に合わせて加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあったが、明治時代になると、天然氷が一般に販売されるようになり、大正時代にかけ、冷蔵用の需要が増加したため、北陸各地に新たな雪室が作られるようになった。他方で、明治30年代から機械氷が天然氷を代替するようになり、冷凍施設なども製造されるようになったため、昭和初期には、徐々に雪室は廃止されていった。そして、戦後の食品衛生法による規制強化、昭和30年代からの電気冷蔵庫の普及によって、昭和37年ころには、ほぼ完全に雪室は消滅した。[2]
氷室を題材・題名とした能の演目がある。脇能物の荒神物のひとつ。
延喜式の記載
平安時代中期成立の『延喜式』には、次の10ヶ所の氷室が記載されている[3][4]。いずれも宮内省主水司の所管であった[4]。
- 大和国山辺郡 都介氷室(闘鶏・都祁<つげ>) (奈良県天理市福住町)
- 『日本書紀』仁徳天皇62年条の「闘鶏氷室」に同じ。
- 山城国葛野郡 徳岡氷室 (京都府京都市右京区御室)
- 山城国愛宕郡 小野氷室 (京都府京都市左京区上高野氷室山)
- 山城国愛宕郡 栗栖野氷室(くるすの) (京都府京都市北区西賀茂氷室町) → 氷室 (京都市北区西賀茂)
- 山城国愛宕郡 土坂氷室(長坂) (京都府京都市北区西賀茂西氷室町) → 氷室 (京都市北区西賀茂)
- 山城国愛宕郡 賢木原氷室 (京都府京都市西京区の樫原地域)
- 山城国愛宕郡 石前氷室(いわさき) (京都府京都市北区衣笠氷室町)
- 河内国讃良郡 讃良氷室 (大阪府四條畷市南野の室池)
- 近江国志賀郡 部花氷室(竜花) (滋賀県大津市上竜華町・下竜華町)
- 丹後国桑田郡 池辺氷室 (京都府南丹市八木町神吉) → 幡日佐神社
なお、後の天長8年(831年)8月、山城国・河内国にはそれぞれ氷室3宇が加え置かれた[4][5]。
氷室の社
平城京では春日山に氷室が置かれ、宮中への献氷の勅祭を行った。平安京への遷都後に奈良にあった氷室を祀る形で設けられたのが、現在、奈良市春日野町にある氷室神社であり[6]、氷室権現とも呼ばれる。
地名
氷室はそれが存在した場所に地名として名残をとどめている場合がある。京都府京都市北区西賀茂氷室町の「氷室町」や島根県出雲市斐川町神氷氷室の「氷室」は現存する地名であるし、氷室村や氷室町は全国各地に数多く存在する、あるいは存在した集落名である。
また、氷室山、氷室岳、氷室台、氷室川、氷室沢、氷室大滝(氷室の大滝)、氷室池、氷室別れ(交差点、辻の名)なども見られる。
伝統行事
1月の最終日曜日に氷室小屋に雪が詰められ(氷室の仕込み)、6月30日に雪を取り出し、これは「氷室開き」とよばれる。豪雪地帯である石川県金沢市とその周辺ではかつて各所に氷室があった。夏場の氷は庶民には貴重品であり、7月1日に氷を模したといわれる氷室饅頭を食べて健康を祈る風習が生まれ、現在も続いている。氷室開きは昭和30年代(およそ1955-1965年)に途絶えたが、1986年(昭和61年)に復活した。しかし近年は暖冬続きで雪不足に悩まされることが多いうえ、氷室小屋を保有する湯涌温泉の白雲楼ホテルが1998年(平成10年)に倒産したことから、行事の継続が一時危ぶまれた。破産管財人の許可により、白雲楼ホテルに近接する玉泉湖畔の氷室と氷室開きの行事は現在も続いており[7]、氷は地元(石川県と金沢市)のほか加賀藩前田氏と縁がある東京都の板橋区、目黒区に贈呈されている[8]。
熊本県八代市では5月31日から6月1日にかけて八代神社(妙見宮)で氷室祭が行われる[9]。この祭の日を俗に「こおっづいたち」(氷朔日か)と呼び、雪の塊を模した雪餅(米粉を水で練り、蒸籠で蒸した餅菓子)を食べる慣わしである[9]。
栃木県日光市にはかつて10軒程度の天然氷製氷業者があった。現在では3軒のみが残っており[10]、四代目氷屋徳次郎(吉新氷室)[11][12]、松月氷室[13][14]、三ツ星氷室が氷室で天然氷を保蔵し販売している。
現代の氷室
この分野では室蘭工業大学の媚山政良特任教授による研究が著名であり、数々の実績がある。
北海道穂別町、沼田町などでは天然雪による冷熱を利用した大型倉庫が整備されており、穂別町では年間1500tの雪を運び込むという。米3万俵(1俵60kg)の他、ブロッコリー、ナガイモなどが常時5℃以下で保管される。野菜の場合、氷室で長期保管することにより甘みが増し、米は「雪瑞穂」というブランドとして評価が高い[15]。
山形県舟形町にある農業実習体験館では駐車場斜面に貯雪庫(60t)を設け、送風機により施設の夏季冷房を実施、年間200時間の雪冷房を実現している[16]。
北海道洞爺湖サミットの会場となった国際メディアセンターで7000tの自然雪を利用した大規模冷房の展示が行われた。冷房に必要な冷熱の全熱量の90%、雪解け水による効果が3%、合計93%の熱量がこの雪冷房によって供給された。その結果、一般の建物に比べ約34%の二酸化炭素排出削減につながった[要出典]。
北海道美唄市では、雪氷熱利用によって、データセンターを冷却するホワイトデータセンター構想を始め、雪蔵を使った農産物の保存、マンションや宿泊施設の冷房などに利用されている。[17]
このほか、福島県喜多方市山都町の玄ソバの熟成(詳細は山都そば#雪室熟成そばを参照)、新潟県上越市安塚区の「雪室コンビニ」(詳細はキューピットバレイを参照)など、各地で雪室の活用が行われている。
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ペルシアの氷室
脚注
注釈
出典
- ^ キリッと"お目覚め"「飛騨かわい雪中酒」蔵出し岐阜新聞web(2018年6月28日)2018年7月10日閲覧
- ^ 池上, 佳芳里 (1999-04-28). “北陸地方における雪室の分布とその盛衰”. 地理科学 (地理科学学会) 54 (2): 126, 129-134. doi:10.20630/chirikagaku.54.2_126 .
- ^ 『国史大系 第13巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)539コマ。
- ^ a b c 『国史大辞典』(吉川弘文館)氷室項。
- ^ 『日本後紀』逸文(『日本紀略』所収、天長8年8月20日条)。
- ^ “氷室神社”. (公式ウェブサイト). 氷室神社. 2012年5月21日閲覧。
- ^ 氷室湯涌観光協会(2018年7月10日閲覧)
- ^ 「氷室の雪氷」が目黒区役所に到着 今年も金沢・湯涌温泉から涼しいプレゼント(平成30年7月4日)目黒区(2018年7月10日閲覧)
- ^ a b “氷室祭の名物 雪餅 - くまもと 食の風物詩”. 気になる!くまもと(公式ウェブサイト). 熊本県広報課、株式会社カラーズプランニング. 2012年5月21日閲覧。
- ^ “下野新聞動画ニュースDoSOON(ドスーン)天然氷の切り出し始まる 日光”. 2012年8月25日閲覧。
- ^ 天然氷|日光霧降高原チロリン村オフィシャルサイト
- ^ 日光 天然の氷 四代目徳次郎
- ^ マニアックな天然氷のお話し
- ^ 「天然氷」ってご存知ですか?
- ^ 【むかわ】氷室に雪山 搬入作業盛ん(苫小牧民報社)
- ^ 雪氷冷熱エネルギーについて(室蘭工業大学)
- ^ http://www.ja-bibai.or.jp/facilities.html JA 美唄
参考文献
関連項目
外部リンク
氷室 (飲食店)
(氷室 から転送)
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冰室(ひょうしつ、ベンサッ、イェール式広東語: bīng sāt)または冰廳(イェール式広東語: bīng tēng)、飲冰室(イェール式広東語: yám bīng sāt)は、広東語で冷たい飲み物を提供する飲食店を指す。これは嶺南において、冷たい飲み物、アイスクリーム、かき氷などの冷たい食品を主に販売するもので、広州を発祥地として発展したものである[1][2]。かつての広州の冰室では、アイスクリーム、冷たい牛乳、水などを取り扱い、さらにコーヒーやミルクティーなどの温かい飲み物や洋菓子も提供していた[3]。香港の冰室は、法例により営業ライセンスは「小食牌照」の取得に限定されていたため、提供できる食品は飲料、サンドイッチ、菓子類などに限られ、炒飯やおかずなど、その場で調理する種類の主食の提供はできなかった。その後、多くの香港の冰室が「食肆牌照」を取得し、茶餐庁へと転換した。こうした店舗は「冰室」と名乗りつつも、実際の営業形態や提供する食品は茶餐庁と変わらなくなっている[4]。
名称
「冰室」という名称の由来には二つの説がある。第一の説では、香港の初期の建築は天井が高く、天井に吊り扇風機を取り付けることで涼しい風を送ることができた。また、提供される食品も、紅豆氷(あずき入りかき氷)、コーヒー、ミルクティーなど西洋風の冷たい飲み物が中心であり、「冷たい飲み物(飲冰)」を売りにしていたため、「冰室」という名称が生まれたとされている。もう一つの説によれば、梁啓超の友人が「飲冰室」という梁の書斎の名をもとに飲食店を経営し、その名が「冰室」の起源になったという伝承もある[5]。
広東話では「冰」はしばしば「冷たい飲み物(冷飲)」を意味し、冷たい飲み物を提供する店は「冰室」と呼び、「冰室」で冷たい飲み物を楽しむことを「食冰(氷を食べる)」、冷たい飲み物を飲むことを「飲冰(氷を飲む)」という[6]。
発展
1874年、スコットランド人エンジニアのジョン・カイル(John Kyle)が香港で初の製氷機を開発し、特許を取得した。彼はウィリアム・ベイン(William Bain)と協力し、蒸発圧縮式冷却システムを用いて香港で氷の生産を開始した。当時の製氷工場は中環にあり、現在まで残る雪廠街の名称の由来となっている[7]。香港が大量の氷を生産できたことが、冰室や冷たい飲料が広く普及する要因となった。ただし当初、冷たい食品や飲料の主な消費者は西洋人であった。これは単に価格の問題だけではなく、当時の中国人は一般に「熱い食べ物は健康を促進し、冷たい飲み物は胃腸に良くない」と考えていたため、冷たい飲み物をあまり口にしなかったからである[7]。
広州

広州の冰室は、西洋料理レストランの発展に伴って誕生した。当初はレストランに併設される形で存在していたが、広州の気候は暑く、水分を取る人が多かったため、次第に冰室単独で営業する屋台や店舗が現れるようになった。
1934年当時、広州には合計21軒の冰室があり、第二次世界大戦後にはその数が80軒以上に達した。かつての秋冬の閑散期には、冰室は他業種も兼業していた。たとえば「皇上皇冰室」は臘味を販売し、「長江冰室」や「喜臨門冰室」は北方風の包子に商売を転じ、ほかにも軽食である糯米飯や犬肉などを扱う店もあった[3]。
改革開放後の1980年以降、広州の冷飲市場には新しい食品が大量に登場し、冰室は大きな打撃を受けて次々と業種転換を余儀なくされた。1990年までに大多数の冰室は、糖水、牛乳、ココナッツミルク、蜂蜜入り亀苓膏などのデザートを主に扱うようになり、またはケーキ、焼き餃子、スープ、臘味入り糯米飯、惣菜弁当、壺蒸しスープ(原盅燉品)、鶏蛋猪脚姜、点心、パン、皮蛋瘦肉粥、大根餅、牛腩粉などを販売するようになった。少数の冰室は夏季に限りアイスクリームや冷たい飲料を提供していた。広州で長く存続し名の知られていた「四大冰室」と呼ばれる店には、順記冰室、美利権冰室、陽光冰室、皇上皇冰室があった(そのほか彩冰室や向群冰室もある)[8]。現在では、順記冰室のみが独立して営業を続けており、美利権冰室は北京路の太平館餐庁の傘下にある[9]。すでに閉業した陽光冰室は1962年以降、犬肉の煮込み料理も取り扱っていた[10]。
香港
初期の香港では西洋料理を提供するのは西洋料理店だけであり、その料金は非常に高価であった。そこで一部の飲食店は、手頃な価格の洋風軽食を提供し始めた。たとえば、1913年創業の安楽園は、庶民向けの洋食を主力として始まり、後に自家製アイスクリームなどの冷飲・冷菓を販売する冰室部門を設けた[11][12]。1920年代には民生冰室、1930年代には璇宮飲冰室など、最初から「冰室」を名乗る店舗も登場していた[13]。香港の冰室は、高級西洋料理店を模倣しつつ、手頃な価格の洋風簡易食を提供することで、労働者階級の需要に応える形で出現した。これらは「咖啡室」「茶冰室」「冰庁」「咖啡庁」「冰庁餅店」「茶冰庁」などと呼ばれた。1960年代以降、冰室はさらに庶民的な存在へと発展した[14]。
香港の冰室の大半は軽食のみを提供し、主食を販売しないものであった。これは、香港の飲食店営業ライセンスが「普通食肆」と「小食食肆」の二種類に分かれているためである。「普通食肆」はあらゆる食品の販売が認められているが、「小食食肆」は指定された食品の組み合わせのみ販売が許可されている[15]。主食を販売しない冰室の大半は1980年代から1990年代にかけて衰退したが、残った冰室の一部は茶餐庁の運営形態を参考にして、より多くの種類の食品を提供するようになった。2007年の時点で「冰室」の名で営業していた店舗は100軒あまりであり、その多くは1960年代から1970年代初頭に開業したものである[16]。また、茶果嶺にある「栄華冰室」は、21世紀においてもなお「小食食肆」免許のみで営業を続ける数少ない冰室の一つである[13]。
関連項目
参考文献
- ^ 老香港的童年 是與冰室有關的集體回憶 アーカイブ 2016年4月7日 - ウェイバックマシン,大公報,達人說第58期
- ^ 冰室打拼50年 アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン,東方日報,2010年4月21日
- ^ a b 廣州市志·商業卷·飲食志
- ^ 舊式餐廳指南:尋找香港冰室 アーカイブ 2016年9月27日 - ウェイバックマシン,CNN - Travel,2010-06-28
- ^ 梁廣福 (7月 2016年). 《再會舊冰室》. 香港: 中華書局. p. 第12頁. ISBN 9789888394777
- ^ 黄小娅. “从真实的雪到广州人口中的雪”. 廣州文史. 2018年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月3日閲覧。
- ^ a b “香港歷史與本地文化:進入了粵式飲食的「冰室」”. BBC. (2020年6月25日). オリジナルの2021年11月21日時点におけるアーカイブ。 2021年11月21日閲覧。
- ^ 飲啖茶食個包 (2016年7月28日). “再说吃冰:广州四大冰室的传奇”. 2018年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月1日閲覧。
- ^ “冰室,老广的夏日印记”. 广州青年报 (2016年5月26日). 2018年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年7月1日閲覧。
- ^ “阳光冰室传奇之狗肉名家”. 广州老字号传奇. 2018年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月10日閲覧。
- ^ 安樂園飲冰室之鹹甜熱品,香港華字日報第六頁,1922-12-01
- ^ “【懷舊小食】涼浸浸的安樂園雪糕”. 2024年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月8日閲覧。
- ^ a b “ViuTV 電視節目《茶餐廳》集數一”. 2024年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月3日閲覧。
- ^ 梁廣福 (7月 2016年). 《再會舊冰室》. 香港: 中華書局. p. 第11-12頁. ISBN 9789888394777
- ^ “食物環境衛生署 - 各項牌照 常見問題”. 2014年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年10月5日閲覧。
- ^ “話說冰室”. 2011年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年2月28日閲覧。
氷室(ひむろ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 04:55 UTC 版)
優飛のマネージャー。優飛がスターになるためにはスキャンダルはご法度なため、翔太と別れさせようとする。但し、これはあくまで「大人の事情」であって、個人的には翔太たちを応援している。
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