オスマン建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 18:29 UTC 版)
オスマン建築(Ottoman Architecture)は、14世紀から19世紀までのオスマン帝国の勢力下において見られる建築。サファヴィー朝ペルシャ建築、ムガル朝インド建築とともに、イスラーム近代建築の一角を形成している。
- ^ a b J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p237
- ^ J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p218, p237。初期のオスマン建築の特徴であるスクィンチによって支えられるシングル・ドームと、交差軸イーワーン・モスクは、ともにセルジューク建築に遡る。石と煉瓦を交互に積層する壁はビザンティン建築に起源があるが、その採用方法はビザンティン建築とは異なる。しかし、イズニクにおいて、ビザンティン建築との関連を指摘する次のような論文もある。Similarities between Ottoman,Local and Byzantine architecture (PDF)
- ^ N.ペヴスナー編『世界建築事典』p306。オスマン帝国においてアヤソフィアは常に賞賛され続け、建築家スィナンはいくつかの作品については確実に自らの建築の源泉としていると考えられる。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p355。
- ^ 脚注1・2を参照。ギュル・ジャーミー、エスキ・イマレト・ジャーミー、フェナリ・イサ・ジャーミーなど、東ローマ帝国の教会堂のいくつかはオスマン帝国の時代にモスクに改装されており、そのほかアヤイリニなど、倉庫や武器庫として用いられた建物もある。ただし、これらの建物がオスマン建築にどの程度の影響を与えたかは定かでない。ハギオス・アンドレアス聖堂のように、改装によってビザンティン建築とは異なった印象の建築物になってしまったものもある。
- ^ セリム1世によって約1000人が移住させられ、建築の装飾にも用いられる陶器の発達に寄与した。
- ^ マルマラ海周辺に居留。イランなどの西方貿易をほぼ独占していた彼らも商業、金融業の担い手となった。また、東ローマ帝国の時代から高度な建築技術を保持していたため、建築業にも携わった。末期オスマン建築の担い手となるバルヤン家もアルメニア人である。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p269-p270。
- ^ 現在のゲジェコンドゥと呼ばれる住宅建築については、ジハンギリ・イステッキ「ゲジェコンドゥ我々の村」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p52-p65を参照。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p329-p330。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p14-p16。
- ^ 山下王世「オスマン朝イスタンブールの給水建築」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p78。
- ^ 山下王世「オスマン朝イスタンブールの給水建築」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p80-p84。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p57-p58。階別の住み分けを行う場合、ハレムは眺めの良い最上階に充てられ、下階をセラムルクとした。しかし、水場などはセラムルクの一部かその下の階に設けられるので、水場に至る急勾配の階段、あるいはセラムリクを通過するだけの階段室が設置されるなどした。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p58-p59。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p49-p52。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p52-p54。
- ^ 鶴田佳子「トルコのバザール空間と広場」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p11。
- ^ 鶴田佳子「トルコのバザール空間と広場」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p13。
- ^ 宍戸克美「イスタンブールの喫茶文化」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p22-p23。
- 1 オスマン建築とは
- 2 オスマン建築の概要
- 3 特徴
- 4 主要建築物
- 5 脚注
オスマン建築
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詳細は「オスマン建築」を参照 14世紀から19世紀[疑問点 – ノート]、現在のトルコを中心に北アフリカ、西アジアなどで強勢を誇ったオスマン帝国(オスマン・トルコ、トルコ帝国ともいう)では、旧来のルーム・セルジューク朝の建築様式やペルシャ建築の系譜を継ぐ建築様式、即ちオスマン建築が開花した。トルコにおいて、建築を大きく前期と後期とに分ける場合、その後半を占めるのがオスマン建築であ[疑問点 – ノート]り、オスマン建築が使用された時期やその栄枯盛衰はオスマン帝国の発展と衰退と大きく関連している。 オスマン建築の源泉となった建築様式であるセルジューク建築は、中央アジアおよびイランのイスラム建築との関連性がみられる建築様式で、主にセルジューク朝及びその後継国家において用いられた建築様式である。 オスマン帝国の建築の起原は、[疑問点 – ノート]オスマン帝国の前身オスマン侯国の旧宗主国ルーム・セルジューク朝の建築とセルジューク朝のペルシャ建築からデザインを借用したものであり、政治的な安定を得るまでは、独自の意匠は開拓されなかった。東ローマ帝国の建築(ビザンティン建築)については、その関係があまり明確ではないものの、少なくとも初期の段階においては、ほとんど影響を受けていない。[疑問点 – ノート] オスマン建築はイスタンブールやエディルネなどの重要な都市や旧都に建設された巨大なモスクの建築が印象的である[疑問点 – ノート]。しかし、その一方で、ジャーミー(モスク)を中心としたマドラサ(学院)、病院、救済施設を融合した複合施設であるキュッリイェといった建築群、[疑問点 – ノート]王宮として使用されたトプカプ宮殿などに代表されるキオスクの集合体としての宮殿、そして[疑問点 – ノート]貴族や一般民衆の住宅建築などがオスマン建築の特徴となっている。 モスクなどにみられるオスマン建築独自の特徴は、ビザンチン建築のアヤソフィアのように大ドームや半ドームを組み合わせて一つの大きいジャーミーを形作っている点や、先が鋭い円錐形のミナレットなどが挙げられる。 初期のオスマン建築の特徴であるスクィンチによって支えられるシングル・ドームと、交差軸イーワーン・モスクは、ともにセルジューク建築に遡る。石と煉瓦を交互に積層する壁はビザンティン建築に起源があるが、その採用方法はビザンティン建築とは異なる[疑問点 – ノート]ものであるとされている。コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を征服して東地中海の覇者となり、壮麗[疑問点 – ノート]王と称されるスレイマン1世(大帝)のもとオスマン帝国が絶頂期を迎えると、オスマン建築はその意匠だけではなく、需要に応じた優れた社会施設や建築技術を開花させた。[疑問点 – ノート] 特に、オスマン帝国再興の建築家と評される16世紀の建築家ミマール・スィナン[疑問点 – ノート]による数多くの建築は有名である。彼は、帝都イスタンブールには最大級のモスク・スレイマニエ・モスク、そして、西部の街エディルネにはスィナン自身が自身の最高傑作と認めたセリミエ・モスクを建設し、オスマン建築の黄金期を創り上げた。スィナンはビザンツ帝国時代に築かれたアヤソフィアの意匠と構造を参考にして、オスマン建築におけるジャーミーの様式を決定付けるなど、アヤソフィアから多大な影響を受けた[疑問点 – ノート]とされており[疑問点 – ノート]、特にスレイマニエ・モスクはアヤソフィアのプランをモデルにして建設されたという。 また、メフメト・アーはイスタンブールにスルタン・アフメド・モスク(スルタンアフメト・モスク)を建設した。 16世紀以降、オスマン帝国は緩やかに衰退していくが、スィナン没後のオスマン建築もまた衰退し、その意匠は緊張感の欠けるものとなる。やがてジャーミーに代わり、スルタン(皇帝)や有力政治家の住居、邸宅の建築が盛んになり、ボスポラス海峡沿岸には豪華な邸宅建築が並ぶようになった。[疑問点 – ノート]18世紀以降になると、オスマン帝国では以前の楊に巨大公共建築やモスクなどはほとんど建設されなくなり、停滞期に入るが、貴族や一般市民の住宅は継続的に建設されており、以後のオスマン建築は宮殿・住宅建築が主要な要素となる。 その後、オスマン帝国末期には、ヨーロッパ列強の影響力を強く受けるようになり、[疑問点 – ノート]ドルマバフチェ宮殿などをはじめとするヨーロッパ風の宮殿建築が建設されるようになった。[疑問点 – ノート]特にバロック建築やロココ建築が多く用いられたとされており、今でもボスポラス海峡の沿岸にはバロック建築やロココ建築で作られた宮殿や邸宅を多く見ることができる。しかし、意匠的には[疑問点 – ノート]ヨーロッパ風の建築様式を参照しているものの、その平面計画はオスマン[疑問点 – ノート]建築で伝統的に用いられたもので、その構造もオスマン建築の影響を色濃く受けたものであった。そのため、オスマン建築は1922年に起こったオスマン帝国の滅亡まで、その独自性を最後まで失うことはなかった[疑問点 – ノート]とされている。
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