オスマン支配後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 20:40 UTC 版)
「ヴァルナ (ブルガリア)」の記事における「オスマン支配後期」の解説
16-17世紀のオスマン支配期には主要な港、農業や交易、造船の中心であり都市としての重要性やブルガリア人の経済活動はそのまま維持されていた。ヴァルナではその後、ルセやシュメン、シリストラと一緒に「四辺形の要塞」の一つが造られドブロジャは露土戦争により残りのブルガリアからは切り離されロシアに含まれた。ロシアは1773年に一時的に攻略し、1828年に再び攻略し後にヴァルナ包囲が続いた。中世の要塞は完全に破壊された後、2年後にオスマン帝国に戻っている。 19世紀初期、多くの地元ギリシャ人は愛国的な組織であるフィリキ・エテリアに参加していた。ギリシャ独立戦争が1821年に勃発するとヴァルナでも革命的な活動が記録されている。この結果、ギリシャの国民運動に参加した地元の著名人はオスマン当局により処刑され、その間に他の者はギリシャに逃れ闘争を続けた。 イギリスとフランスのロシアに対する軍事行動であるクリミア戦争(1854-1856)ではヴァルナは司令部や主要な海軍基地として使われ、多くの兵士がコレラで死亡し街は大火による破壊も経験している。イギリスとフランスの記念碑はコレラの犠牲者が埋葬された墓地に印されている。1866年、ブルガリア初の鉄道がヴァルナとドナウ畔のルセとを結びオスマンの首都であるコンスタンティノープルと中央ヨーロッパが結ばれることになった。その数年後にオリエントエクスプレスがこのルートを走るようになった。ヴァルナ港は主要な食糧供給とくに隣接する穀倉地帯である南ドブロジャからの小麦の供給とコンスタンティノープルや他の欧州の首都からの輸入の忙しいハブとして開発が進んだ。12の外国の領事館がヴァルナには開かれている。地元のブルガリア人はブルガリア再生運動(英語版)に参加し、ヴァシル・レフスキは秘密革命委員会を設置した。
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