ベイト・エッディーンとは? わかりやすく解説

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ベイト‐エッディーン【Beit ed-Dine】

読み方:べいとえっでぃーん

レバノン中南部の町。ベイルート南東50キロメートルシューフ山地位置するオスマン帝国の州総督として同地治めたバシール=シハーブ2世によって建造され宮殿があることで知られる


ベイト・エッディーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 01:40 UTC 版)

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ベイト・エッディーン宮殿の入口
宮殿内の噴水

ベイト・エッディーン宮殿アラビア語表記بيت الدينラテン語表記Beit ed-Dine)とはシュフ山地内のレバノンの小さな町ベイト・エッディーンにある宮殿である。およそ首都ベイルートから50kmほど離れており、デイル・エル・カマールから車で10分ほどの距離にある。この町は、19世紀に完成した荘厳な宮殿として名高い。

バシール・シハブ2世が山岳レバノン(レバノン首長国)の首長として、オスマン帝国から任命された1788年から建設が始まった。もともと、この土地は、ドゥルーズの避難地であった。建設の完了には30年ほどの年月が費やされた。

ダマスカスアレッポといったシリアの諸都市のみならず、イタリアからも建築家がこの地に招かれ、自由に建設を競い合った。その結果、ベイト・エッディーンは、アラブ建築とイタリアのバロック建築が融合した姿を見せている。

1840年に、バシールがレバノンを去り、マルタに亡命した後には、ベイト・エッディーン宮殿は、オスマン帝国の政府の建物として利用された。フランスの委任統治下に入った1918年以降も、その役割は変わることがなかった。1943年に、レバノンが独立を宣言すると、初代大統領であるビシャラ・アル・フーリーは、ベイト・エッディーンを夏の執務室として利用することを宣言した。レバノン内戦では、大きなダメージを受けた。1984年に戦火がこの地から離れる状況になるとワリード・ジュンブラットは、その復興が必要性を訴えた。

現在では、一部が夏の大統領専用の執務室として使われているが、一部は、一般に開放されている。

ここでは、毎夏、国際ベイト・エッディーン・フェスティバルが開催されていて、世界中から著名な演奏家やバレエ団などが招かれ、中東有数の文化活動の中心となっている[1]

バシールは、この町に自らの息子のために、3つの宮殿を別に建設したが、現在では、Mir Amin Palaceのみが残り、豪華ホテルとして営業している。

外部リンク

脚注

  1. ^ 堀口松城『現代レバノンの歴史』(明石書店、2005)p.67


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