「組織規約」と経済的繁栄
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「近代レバノンの歴史」の記事における「「組織規約」と経済的繁栄」の解説
1861年6月、イスタンブールで「組織規約」(レバノン統治組織基本法)が署名された。この組織規約は、山岳レバノンを6国(イギリス、ロシア、オーストリア、フランス、プロイセン、オスマン帝国⇒1867年にはイタリアも署名し、7国)の保障の下に、自治権を持つ特別地域とするなど17条からなっていた。 この「組織規約」に基づき、山岳レバノンに山岳レバノン直轄県が成立した。オスマン帝国において、県は州の下位に位置する行政単位であったが、山岳レバノン直轄県はどの州にも属さない政府直轄の県とされ、オスマン国籍を持つキリスト教徒で、かつ山岳レバノン出身ではないムタサッリフ(県長、総督)が支配することとなった。政府直轄の県とはいえ、実際には総督の任命に「組織規約」調印国の承認が必要になるなど、自治・独立性の高い行政組織となった。一方、ベイルート、トリポリ、シドンなどの沿岸部やベッカー高原などは山岳レバノン直轄県には含まれず、引き続きシリア州の一部としてオスマン帝国の直接統治下に置かれた。 初代の総督として、アルメニア・カトリックを信仰するダウド・エフェンディがフランスの推薦で任命された。ダウドは、レバノンに効率的な官僚組織をもたらすと同時に、ベイト・エッディーンに政府の印刷所を作り、レバノン最初の官報を発行させた。ダウドの改革は、宗派間の衝突を急速に沈静化させることには成功したが、それは山岳レバノンの北部をマロン教徒、南部をドゥルーズの勢力圏とすることで、対立の構図を固定化する形での解決でもあった。その意味ではこの「組織規約」における改革は、マロン教徒が政治的な優位を占めたという相違点はあるものの、1842年の行政改革の方向性を引き継いだものであると言える。 また、文化的覚醒とフランスの支援を受けて発展した絹産業を中心に、レバノンは、経済的繁栄を遂げた。加えて、総督制は、山岳レバノンの自治を保障するものであり、キリスト教徒の利益にかなっていたが、この政治的経験は、首長国時代には保有していたベッカー高原、ベイルート、トリポリ、シドンの回復を主張するようになっていく。この大レバノン主義は、キリスト教徒優位であった状態が将来的には覆る結果となる(これら4地域を併呑した場合、人口構成が著しく変化し、ムスリムが多数派になる)。このことが、国家としてのレバノンが政治的脆弱性を内包することになった。
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