トプカプ宮殿の邸宅と地方総督の宮殿
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「オスマン建築」の記事における「トプカプ宮殿の邸宅と地方総督の宮殿」の解説
メフメト2世によって建設されたトプカプ宮殿は、18世紀以後も増築と改築が繰り返されており、初期の建物はほとんど残っていない。オスマン最盛期に建設されたものとしては、1578年にスィナンによって再建されたハレム、1585年にダウト・アーによって建設されたアルズ・オダ(謁見の間)などがある。貴族階級の様々な要求を満足するかたちで、オスマン後期になってもキョシュクは建設されつづけた。 後期に建設されたもので最も有名なものは、1623年にバグダード再征服を祝ってムラト4世の命により建設されたバーダッド・キョシュクである。これは、当時の宮廷建築家ハサン・アーによって設計された。元来は王座の間として建設されたと推測され、十字平面の上に載るペンデンティヴ・ドームは黄金のアラベスク模様のタイルで飾られた豪華なものであるが、タイルの質には、すでに芸術的衰退の兆しがあることが指摘される。このほか、カラ・ムスタファ・パシャのキョシュクなどは18世紀に再建されたものである。 トプカプ宮殿やボスポラス海峡沿岸にたてられたキョシュクは、オスマン帝国の住居建築の理念を体現していると言える。19世紀にいたるまで、材質や装飾、調度品の豪華さの程度はあるものの、平面的には皇帝や貴族と庶民の間には基本的な差異はなかった。宮殿の内部空間の大きさは人間的な尺度で作られ、決して壮大なものではなく、また、特定された目的のための部屋、という意識はほとんどなかった。住宅には居住空間としての柔軟性が求められていたのである。 オスマン帝国の総督たちは地方において王の様に振る舞い、彼らによって、帝国の勢力下にはすばらしい宮殿建築が残されている。アララト山の麓、ドウバヤズィト近郊に1784年頃に完成した、イスハク・パシャ宮殿は、オスマン帝国から半ば独立した状態にあったクルド人の知事イスハク・パシャによって築かれた宮殿であった。20世紀に軍の駐屯地としても使われたこの建築複合体は、防御の容易な山の頂きに建つ。全体的にはオスマン建築よりも、ルーム・セルジューク朝の建築様式の影響が強いが、ヴァン湖にあるアクダマル島のスルブ・ハツ聖堂のような浮き彫りを想起させる装飾も用いられている。また、中庭に向いた円柱に載る3連アーチの柱廊部分には、北シリアの建築の影響を認めることもできる。 ハマーのアズム宮殿は、北シリアの名望家アズム家のアスアド・パシャ(アサド・パシャ)によって、1742年に建設された宮殿であったが、1982年にシリア軍によるムスリム同胞団掃討戦によってほとんど破壊されてしまった。宮殿は逆丁字形をした謁見の間を中心として構成され、装飾はたいへん豪華で、ムカルナスに覆われた4つの大アーチに載るドームを頂く。建築の構成はマムルーク朝の建物の影響を認めることができる。同じくアスアドによって、1749年に建てられたダマスカスのアズム宮殿は、中央には広大な中庭を持つ形式で、これを柱廊のある大広間と部屋が取り囲む。多彩色の石材と木材を使った装飾のスタイルは、ハマーと同様に、非常に精巧である。トプカプ宮殿と同様、部屋は小さく質素で、さらに外部に対して宮殿であることの誇示はない。 ベイト・エッディーン宮殿は、アミール・バシール2世によってベイルート近郊の山中に、1810年に建てられた。2層2重の柱廊を持つ美しい中庭を囲む形式で、アーケードは八角形の小柱によって支えられている。中央に泉を配置し、ファサードに壁嵌を穿つ方式は、サファヴィー朝ペルシア建築の謁見室に類似しており、地方様式の影響が、オスマン建築の性質を抑えている。
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