レバノンの歴史とは? わかりやすく解説

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レバノンの歴史

(古代レバノンの歴史 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 09:03 UTC 版)

古代

現在レバノンと呼ばれている地方の歴史のうち、フェニキア時代からアラブによる統治の前夜までを対象とする。

フェニキア時代

サイダ(シドン)新市街

現在、レバノンと呼ばれている地域が初めて歴史の表舞台に登場したのは、紀元前3000年頃である。そのころのレバノンは、内陸部には鬱蒼とした森が茂り、海岸線には、一連の都市群が成立していた。セム系の民族で「フェニキア人」とギリシャ人から呼ばれた人々がこの地に居住していた。フェニキアの由来は、彼らが売っていた色(purple=phoinikies)の染料である。彼らフェニキア人は、自らのことを「シドンの人」と呼び、自らの国を「レバノン」と呼んでいた。この地域の自然とその位置のために、フェニキア人は、貿易と交渉に従事する場所を海(地中海)に求めた。

沿岸部にあった都市群は、それぞれがその住民の特別な行動で有名な独立した王国であった。ティルスとシドンは、海事上・通商上重要な拠点であった。また、Gubla(後にビュブロス、現在のジュバイル)やBerytus(現在のベイルート)は、貿易、宗教の中心地でもあった。Gublaは、古代エジプト(紀元前2686-2181年)と最初に通商を行ったフェニキアの都市であり、杉材、オリーブ・オイルワインを輸出し、やその他の生産物をナイル川渓谷(すなわち、エジプト)から輸入していた。

紀元前17世紀の終わり、レバノンとエジプトの通商関係は、北方のセム系民族であるヒクソスがエジプトを征服したことによって、中断した。ヒクソスによる30年間と統治の後に、イアフメス1世(紀元前1570年-45年)によってエジプトの解放戦争が展開された。ヒクソスの統治に対して反発が強まるにつれ、エジプトのトトメス3世(紀元前1490-36年)がシリアに侵攻を実施し、ヒクソスの統治が終わり、レバノンはエジプトに編入された。

紀元前14世紀、エジプトが弱体化する中で、レバノンは、紀元前12世紀初頭には、独立を回復することができた。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた時代であり、繁栄と外国からの自由の時代でもあった。フェニキア人は、織物の生産に秀でていただけではなく、象牙彫刻、金属加工、とりわけ、ガラス製品の製造にも秀でていた。彼らは、地中海(特にキプロスロドス島クレタ島カルタゴ)に跋扈し、植民都市を建設、ヨーロッパ西アジアの交易路を確立した。その上、彼らの船は、ポルトガルによる世界一周の2000年前に、アフリカを周回していた。これらの植民都市と交易路は、アッシリアによる地中海沿岸地域への侵攻まで繁栄を極めた。

アッシリア時代

アッシリア時代は、紀元前875年から608年まで続いた。アッシリアは、フェニキアの都市群から独立と繁栄を奪い、フェニキア人は、複数回にわたり反乱を起こした。紀元前8世紀半ば、ティルスとビュブロスが反乱を起こしたが、ティグラト・ピレセル3世は、反乱を鎮圧し、重税を課した。また、紀元前721年にティルスは反乱を起こしたが、サルゴン2世(紀元前722年から705年)は、ティルスを包囲し、ティルスの民に処罰を与えた。紀元前7世紀に入るとシドンが反乱を起こしたが、エサルハドン(紀元前681-668年)によって、徹底的に破壊され、シドンの民は、奴隷化された。また、彼は、シドンの廃墟の上に、新しい都市を建設した。紀元前7世紀末アッシリア帝国は連続する反乱のために弱体化し、メソポタミアで勃興した新バビロニア王国によって滅ぼされる。

バビロニア・アケメネス朝ペルシアの時代

フェニキア都市群の反乱は、バビロニア時代(紀元前685年から636年)でも頻繁に反乱を起こした。ティルスは、再度反乱を起こし、ネブカドネザル2世の軍隊による包囲に対して13年間、抵抗を試みた。この長い包囲の後に待っていた結末は、降伏である。ティルスの王は廃位され、ティルスの民は、奴隷となった。

アケメネス朝ペルシアを創立したキュロス2世によって、紀元前539年頃、バビロニアの時代は終了を迎える。そして、フェニキアは周辺諸国とともに、ペルシャの領土に組み入れられた。カンビュセス2世(在位紀元前529年から522年)は、父・キュロスの拡大政策を引き継ぎ、紀元前529年に、シリア、レバノン、エジプトを属国化に成功した。ペルシャ戦争の時代、フェニキア人は、ペルシャを海軍力で支えた。しかし、ダレイオス1世(在位紀元前521年から485年)がフェニキア人に重税を課したために、レバノンの沿岸部の都市では反乱が起きた。

アレクサンドロス大王の時代

アレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼした。その過程で、彼は小アジアでペルシャの軍隊を紀元前333年に撃破、その後、レバノン海岸に歩を進めた。はじめは、フェニキア人は、アレクサンドロスの属国化を認識していたために、抵抗を試みようとはしなかったが、彼が、ティルスの神に対して生贄を要求するとティルスは、アレクサンドロスに対して反乱を起こした。アレクサンドロスは、紀元前332年の早い段階でティルスを包囲し、その6カ月後、ティルスは陥落し、住民は奴隷として売られていった。彼の死が紀元前323年とあまりにも早かったにも関わらず、アレクサンドロスの遠征は、東地中海地方にギリシャの色を大きく残した。

セレウコス朝シリア・ローマ帝国の時代

バールベックのバッカス神殿

アレクサンドロスの死後、アレクサンドロスの大帝国はディアドコイと呼ばれる後継者たちの間で分割された。フェニキア、小アジア、北シリア、メソポタミアを含む帝国東部は、セレウコス朝の統治下に置かれた。南シリアとエジプトはプトレマイオス朝の統治下に置かれ、マケドニアを含むヨーロッパは、アンティゴノス朝の統治下に置かれるようになった。とはいえ、この分割がすぐにこの地方に平和をもたらしたとはいえない。というのも、セレウコス朝とプトレマイオス朝の間で、40年間に及ぶ衝突(シリア戦争)が経済の中心として繁栄していたフェニキアを自らへ併呑しようと抗争を展開していたからである。最終的には、セレウコス朝の領土となった。

セレウコス朝の最後の世紀は、無秩序と王朝内の闘争の時代であった。紀元前64年、共和政ローマによる侵攻を許す。その結果、レバノンはシリアとともにローマの領土(シリア属州)となる。パックス・ロマーナと呼ばれる時代、レバノンでは経済的・知的活動が花開いた。かつてのフェニキアの都市であったビュブロス、シドン、ティルスは、ローマの市民権を付与された。これらの都市群は、陶器・ガラス・紫の染料の生産の中心地であった。港は、シリア、イランインドからの物産の集積地となった。また、同時に、杉材、香水、宝石、ワイン、果物がローマに輸出された。経済的繁栄は、都市の再興と郊外の発展へと繋がった。神殿や大邸宅がこの時代に多く建設されると同時に、都市間は舗装道路で結ばれた。

テオドシウス1世が395年に死去するとローマ帝国は、東西に分割された。東ローマ帝国の統治の下で、ベイルート、ティルス、シドンは、ローマ時代よりも経済的繁栄を謳歌した。しかしながら、6世紀、バールベックの神殿建築群とベイルートは、地震によって崩壊した。3万人近い住民が死亡したと推測されている。加えて、東ローマ帝国は、レバノン地域に重税を課した。また、レバノン地域は、宗教面で相違があった。5世紀から6世紀のレバノン地域の混乱は、帝国を弱体化させると同時に、アラビア半島から侵攻してきたイスラームへの統治と改宗を容易にしたのである。

中世

現在、レバノンと呼ばれている地域のアラブ統治時代の歴史についての記述を行う。アラブ人による征服が行われる以前は、様々な王朝がレバノンを統治したが、最終的には、東ローマ帝国の統治下に入った。しかし、6世紀に入ると東ローマ帝国の弱体化、622年のムハンマドによるイスラームの勃興を契機に、アラブ人がレバノンを征服した。その後、レバノンを統治した王朝の交代が相次いだが、マムルーク朝の滅亡とほぼ同時に、オスマン帝国の統治下に入った。

アラブ人による征服 634-636

預言者ムハンマドの死後、彼の後継者たちは、アラビア半島を飛び出し、東地中海地方へ進出を開始した。他の地域へ進出した理由は、経済的な必要性に迫られていたこともさることながら、宗教上の信念に基づいていた。

ジハードと呼ばれる非ムスリムとの戦争において、初代正統カリフであるアブー・バクルは、レバノンにイスラームをもたらした。アブー・バクルは、軍隊を3つに分け、1つをパレスチナへ、1つをダマスカスへ、1つをヨルダン川流域に進出させた。636年、第二代正統カリフであるウマルの時代、北西ヨルダンのヤルムークにおいて、ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍を破った(ヤルムークの戦い)。これにより、ヨルダンは、アラブ帝国の統治下に入ることになる。

ウマイヤ朝時代 660-750

アンジャルに残るウマイヤ朝時代(8世紀頃)の宮殿の遺構。

第2代カリフ・ウマルは、ムアーウィヤ(660年に、ウマイヤ朝を創始する)をシリアの統治者に任命した。ムアーウィヤが統治を委ねられたシリアには現在のレバノンも含まれていた。ムアーウィヤは、レバノン海岸地方に軍隊を駐屯させると同時に、東ローマ帝国の想定されうる攻撃に耐えることができる海軍の建設をレバノン人に委ねた。

ムアーウィヤは、山岳レバノンに住み、アラブによる東ローマ帝国侵略を阻止するために東ローマ皇帝の支援を受けたマラダ(マロン教徒のこと)の侵略を阻止した。ムアーウィヤは、アラビア半島及びイラクにおいての自らの権威を固めることに関心があったため、667年に、コンスタンティノス4世と和議を結んだ。その内容とは、コンスタンティヌス4世に毎年ある程度の貢納を行う見返りに、マラダへの援助を止めることであった。

この時代に、アラブ人のレバノン及びシリアの海岸部への居住が始まった。

アッバース朝時代 750-10世紀後半

750年、サッファーフによってアッバース朝が創設されると、アッバース朝はウマイヤ朝に代わり、レバノンを統治した。アッバース朝は、レバノンとシリアを征服地と見なしていたため厳しい統治を行い、759年の山岳レバノンでの反乱も含めて、数回の反乱が起きた。10世紀の終わりまでには、ティルスアミールが、アッバース朝からの独立を宣言し、独自の貨幣を発行したが、エジプトに勃興したファーティマ朝にレバノンは、支配されることとなった。

アラブ人による統治の影響

ウマイヤ、アッバース両王朝によるレバノン統治は東地中海地域に大きな影響を与え、とりわけ、今日のレバノン情勢へと繋がっている。まさしくこの時代こそ、レバノンが異民族・異宗教の避難地となったのである。

キリスト教徒の一派であるマロン教徒の祖先がレバノンに住むようになったのもこの時代である。この地域のキリスト教徒内の宗派の対立を回避するために、聖ジョン・マロンの支持者は、オロント川上流域からカディーシャ渓谷へ居住地を移した。この渓谷は、トリポリから北東に25キロメートルほど離れた山岳レバノンに位置している。

アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードとその息子マアムーンの時代に、哲学、文学、化学が、とりわけ大きく進歩を遂げた。レバノンもまた、知的復興の面で目立った貢献をしている。医者ラシード・アッディーン、法学者アル=アワズィー、哲学者クスタ・イブン・ルーカがその代表格である。レバノンは、また、ティルスやトリポリといったレバノンの港町の繁栄を大いに享受していた。ティルスやトリポリは、織物、陶磁器、ガラス産業の貿易拠点として繁栄していた。レバノンで生産された製品は、アラブの国々のみならず、地中海全域に運ばれていった。

一般的には、アラブ人の統治者は、レバノンに住むキリスト教徒やユダヤ教徒に寛容だったといえよう。両教徒とも特別な税金を課せられていたが、軍役は免れていた。後のオスマン帝国時代になり、これらの慣習は、非ムスリムはミッレトと呼ばれ特別に分けられた共同体として統治を受け、1980年代の後半になってもそのシステムは生きている。すなわち、それぞれの宗教共同体がそれぞれのリーダー及び離婚法・相続法といったような共同体独自の法律の下で運営されているのである。

十字軍の時代 1095-1291

ファーティマ朝のカリフ、ハーキムによるパレスチナ地方のキリスト教徒の聖地の占領と破壊の後、8次に及ぶ十字軍の時代が訪れる。第1回十字軍は、1095年に開催されたクレルモン公会議において、教皇ウルバヌス2世によって提唱された。エルサレムを占領すると十字軍は、レバノン海岸に関心を抱いた。トリポリは1109年に、ベイルートとシドンは、1110年に十字軍の手に落ちた。ティルスは頑強な抵抗を続けたものの1124年に陥落した。

十字軍はこの地域に恒久的な政権を樹立するには至らなかったが、レバノンに大きな足跡を残した。1291年のアッカの陥落を以て、十字軍の歴史は終焉を迎えるが、海岸線に沿う形で、多くの塔が残り、山々の稜線に沿う形で城砦が遺跡として残り、数多くの教会が残された。

レバノン、シリアにまたがる地域での異なる宗教・民族間の激突は、13世紀にも起こった。十字軍だけではなく、中央アジアからはモンゴル人フレグ・ウルス)が、エジプトからは、マムルーク朝がこの地域を支配するために衝突を繰り返した。最終的には、この地域は、マムルーク朝の統治の下に入る。

マムルーク朝時代 1282-1516

マムルークとはトルコ系の軍人奴隷のことであり、カスピ海沿岸の地域あるいはコーカサス山脈地方出自の奴隷である。彼らは、アイユーブ朝時代に、エジプトに護衛兵として連行された経緯を持つ。1252年に、アイユーブ朝の最後のスルタンであるアル・アシュラフ・ムーサーを殺害したアイバクの手によって、マムルーク朝の時代が始まるが、この王朝自体は、エジプトとシリアを統治下におき、2世紀以上の命脈を保った。

11世紀から13世紀にかけて、シーア派住民がシリア、イラク、アラビア半島から北部レバノンに位置するビカ渓谷、ベイルートの北東部に位置するカスラワーン地方に移住した。彼らをドゥルーズ派と呼ぶこととなるが、彼らは、1291年にマムルーク朝がフレグ・ウルスや十字軍勢力と戦っている最中に反乱を起こす。マムルーク朝は、1308年にこの反乱の鎮圧に成功することになるが、ドゥルーズ派の住民は、カスラワーン地方を放棄し、南部レバノンへ移住することとなる。

マムルーク朝は、東ローマ帝国滅亡(1453年)後は、ヨーロッパと中東の間の関係を間接的に育てた。中東経由の奢侈品に慣れ親しんだヨーロッパ人は中東産の物品を渇望していたし、また、中東の人々も十分な利益を上げることができるヨーロッパ市場を渇望していたからである。地理的に恵まれていたベイルートは、交易の中心となった。レバノンでは、さまざまな共同体の間で宗教的な対立があったにもかかわらず、オスマン帝国によるマムルーク朝の滅亡まで、レバノンは、経済繁栄と知的な文化が花開いた。

近代

現在、レバノンと呼ばれている地域のオスマン帝国の統治下に入った時代から、1918年フランス委任統治下に入った時代までの約400年間について描出する。

エジプト及び歴史的シリアを中心に繁栄したマムルーク朝は、オスマン帝国との抗争に敗れ、1517年に滅亡した。近代のレバノンの歴史は直接的に、オスマン帝国の盛衰と大きく関わってくる。

地理的な要因、宗派間の対立もあり、レバノンは、ヨーロッパ列強の介入を大きく受けることになる。

オスマン統治の開始 1517-1618

セリム1世によるマムルーク朝の滅亡によって、現在のレバノンは帝国の領土に組み込まれ、オスマン帝国のシリア州の一部となったが、トリポリなどの地中海沿岸部とレバノン山脈周辺などの内陸部では大きく社会環境が異なっていた。

エジプトと異なり、シリアではマムルークの勢力がほぼ一掃されたこともあって、沿岸部では大規模な測量が行われ、帝国の中心地であるアナトリア半島バルカン半島と同様にティマール制(スィパーヒーと呼ばれる騎士に徴税権を与え、代価として有事の際の軍役を義務付けた制度)が施行された。こうして沿岸部は、オスマン帝国のシリア州総督による直接的支配のもとに置かれた。

一方、「山岳レバノン」と呼ばれたレバノン山脈周辺の地域では、キリスト教イスラーム双方の様々な少数宗派がそれぞれ独自の生活を送っていた。このような複雑な社会環境もあって、山岳レバノンではティマール制は施行されず、従来どおりのミッレト制度に基づく統治が行われた。各宗派は、自らの信仰、文化、社会的自治が認められていた。したがって、現代に至る地域的独自性、社会的独自性がレバノンにおいて維持されることとなった。

納税の義務を果たせば、オスマン帝国はそれぞれの集団の内政に干渉することはなかった。そのため、山岳レバノンに居住するマロン教徒ドゥルーズは、ミッレト制度のもとで独自の発展を遂げることとなった。特に、東方カトリック教会に属するマロン教徒は、宗教的親和性があることをもって、西欧諸国との関係を広げることに成功した。このことが、レバノンが他のアラブ世界に先駆けて近代化することを可能とした。

レバノン首長国 1618-1842

デイル・エル・カマール
ベイト・エッディーン宮殿の入口

1566年スレイマン1世の死亡後、オスマン帝国は全盛期を終え、緩やかな衰退へと進んでいった。帝国は分権化の方向へ進み、各地で中央の権威に挑戦する地方有力者が登場し始める。このような地方有力者の誕生の背景にはティマール制の崩壊とそれに代わる徴税請負の導入があり、徴税請負人に富と権力が集中する構造のもとで徴税請負人が有力者へと転身していくことになる。山岳レバノンでも上述のような展開とは少し異なりつつも、他地域における徴税請負の展開と関連した形で有力者が登場してくることになる。

ティマール制が施行されなかった山岳レバノンにおいては、従来から各ミッレトのリーダーが税を取りまとめて中央に貢納するという方法がとられていたが、帝国全土で徴税請負が展開されていく中で、中央政府は各ミッレトのリーダーが持つ「徴税者」としての立場を再認識することとなった。こうして各ミッレトのリーダーは中央からは実質的な徴税請負人として認識されるようになり、またリーダーの側でも、中央から認められた徴税者であるという立場を利用して、ミッレト内での自らの地位を強化していくことになった。

こうして山岳レバノンに登場した有力者たちは、他地域の有力者同様にやがて中央権力からの自立を指向していき、中には山岳レバノンにとどまらず、周辺地域に支配を広げようとする者も登場するようになった。このような有力者の一族は代々地域社会に対して様々な影響力を行使したが、このような家系の中で特に知られているのがマーン家とシハーブ家である。

マーン家の統治 1618-1697

レバノンにおいては、1120年に、十字軍の攻撃に対して防衛するためにレバノンに入ったマーン家のファハル・アッディーン2世が帝国への挑戦を行った。

ファハルは、オスマン帝国に年貢を納めつつ南レバノンとシドンを治めたドゥルーズの指導者であり、ベドウィンによる略奪を防ぎ、交易の振興に当たっていた。しかし、南レバノンとシドンにとどまらず、ベイルートを自らの傘下に収め、かつ、各地の要塞を修築していたことで、帝国の不興を買う形となり、帝国の軍事的攻勢を受け、1613年イタリアへ逃亡した。また、ファハル傘下の軍隊は各地でオスマン帝国への抵抗を続けた。

1618年、イタリアから帰国したファハルは、イタリアで学んだ知識を活用した。強力で、なおかつ規律の取れた軍隊を組織することを認識しており、自らの財産によって正規軍の創設に踏み切った。1623年には、ファハルの軍隊は、 ビカ渓谷のアンジャールにおいて、オスマン帝国軍132,000人を破った。そのことにより、翌年、アレッポからエルサレムにいたるアラビスタン地方の支配が正式に帝国から認められることとなる。

その後、ファハルは、北レバノンのアッカ、ジュベイルなど、山岳レバノンを統一するとともに、レバノン海岸部のトリポリまでを支配下に入れたが、このような勢力の拡大が中央政府との衝突を再び生み、息子とともにイスタンブールに連行された後、1635年に処刑された。これらの功績より、現代レバノンにおいて、ファハルは、「独立の父」として教育されている。

シハーブ家の統治 1697-1842

マーン家の統治の後を襲ったのが、シハーブ家である。その中でも、最も著名なのが、バシール・シハーブ2世(1788年 - 1840年)である。

元々シハーブ家はヒジャーズに起源を持つスンナ派ムスリムであったとされるが、バシールの代までには全て改宗してマロン教徒となっていた。しかし、バシール自身は個人の信仰を表に出すことはなかったとされる。1799年、ナポレオンがアッカに侵攻すると(エジプト・シリア戦役を参照)、バシールはナポレオンとアッカを統治していたジャッザール・パシャの双方から協力を求められたが、どちらにも与せず中立を保った。アッカの攻略に失敗したナポレオンは、エジプトへ移動することとなった。

バシールはその後、支配領域の拡大を目指して周辺の有力者との抗争を続けることになる。時には抗争に敗れてエジプトなどに逃れることもあったが、徐々に力を蓄え、また徴税吏の地位を巡って、シハーブ家の競争相手を投獄したり、盲目にしたり、殺害することによって、自らの地位を固めつつ、1830年には、ディンニーエとアッカを除くレバノン全域をバシールは支配することとなる。オーストリア帝国メッテルニヒは、山岳レバノンをシリアの別個の国家として認識していたが、この時期にバシールが統治していた領域が、現代のレバノンの原型といえる。

だが、シハーブ家の統治は、エジプトからの潮流を受けて、やがて終焉を迎えることになる。同時期のエジプトで州総督のムハンマド・アリーによる近代化改革とオスマン帝国への挑戦が始まったからである。近代化されたエジプトは、第一次エジプト・トルコ戦争での勝利の結果、シリアの支配権を獲得する。シリアはムハンマド・アリーの息子であるイブラーヒーム・パシャが統治することとなり、バシールはエジプトの「同盟者」として引き続きレバノンを支配することになった。

バシールはかつてエジプトに逃れていた際にムハンマド・アリーと親交を結んでいたこともあって、イブラーヒーム・パシャへの協力を惜しまなかった。例えば、イブラーヒーム・パシャはシリアにおいて養蚕を奨励し、桑の作付面積を拡大する政策を採ったが、同盟者であったバシール・シハーブ2世の支配地域でも同様の政策が採られた。このようなエジプトとの協調体制は、後に山岳レバノンにおいて絹産業が発展する素地を作るなど、一定の成果を収めた。

しかし、エジプトの同盟者という立場はレバノン首長国に終わりをもたらした。エジプトがイギリスとの戦争に負けたためである。バシールは、イギリスの軍艦で、マルタへの亡命を余儀なくされ、レバノン首長国は滅亡した。

レバノン首長国の文化的遺産

ファハルとバシールは、現代に大きな遺産を残していることでも著名である。

ファハルは、「月の修道院」という名前のデイル・エル・カマールを自らの拠点とした。ドゥルーズの居住地であるシュフ山地のほぼ中央に位置し、ここの宮殿には現在、蝋人形博物館がある。

また、バシールは、このデイル・エル・カマールから車で10分ほどの距離にベイト・エッディーン宮殿を建設した。ここは、現在では、中東有数の文化活動の中心である。

列強の介入 1842-1918

社会の不安定化

マーン家、シハーブ家は、北レバノンに居住していたマロン教徒が山岳レバノンへ移住することを奨励した。この中から、経済的な成功者も現れたが、このことで、2つの経済的・社会的不安定がもたらされることとなった。

1つは、マロン教徒内部での社会的不安定をもたらしたことである。もう1つが、相対的に貧しい生活を送っていたドゥルーズの首長層・地主が土地を担保に、マロン教徒の富裕層あるいは金貸しから多額の借金を負うようになった。

1840年代初頭には、ロシア東方正教会の信徒を、フランス・オーストリアがマロン教徒及びギリシャ・カトリックの両派、イギリスがドゥルーズを公然と擁護する構図が出来上がり、政治介入は、日常的なものとなった。帝国政府は、キリスト教徒地区の分裂を助け、また、その時々で、支持する相手を変えるといった具合であった。

1842年には山岳レバノンを二つに分割し、北部にマロン教徒の代官を、南部にドゥルーズの代官をおいて統治する行政改革が列強の支持のもとで行われたが、なおも社会不安は続いた。このような状況下で、1860年6月、デイル・エル・カマールの虐殺が起きた。1858年に始まったマロン教徒農民層による武装蜂起と彼らの行動を危惧したドゥルーズのキリスト教徒殺害の帰結の事件であるこの事件は、結果的に11000人のキリスト教徒が殺される惨事となったが、この事件により、欧州の世論は即時介入に踏み切ろうとしたが、オスマン帝国政府は、介入の口実を与えなかった。

しかし、ナポレオン3世が1848年に実権を握っていたフランスはこれ以後、レヴァントへの関心を高めていくこととなった。

「組織規約」と経済的繁栄

1861年6月、イスタンブールで「組織規約」(レバノン統治組織基本法)が署名された。この組織規約は、山岳レバノンを6国(イギリス、ロシア、オーストリア、フランス、プロイセン、オスマン帝国⇒1867年にはイタリアも署名し、7国)の保障の下に、自治権を持つ特別地域とするなど17条からなっていた。

この「組織規約」に基づき、山岳レバノンに山岳レバノン直轄県が成立した。オスマン帝国において、県は州の下位に位置する行政単位であったが、山岳レバノン直轄県はどの州にも属さない政府直轄の県とされ、オスマン国籍を持つキリスト教徒で、かつ山岳レバノン出身ではないムタサッリフ(県長、総督)が支配することとなった。政府直轄の県とはいえ、実際には総督の任命に「組織規約」調印国の承認が必要になるなど、自治・独立性の高い行政組織となった。一方、ベイルート、トリポリ、シドンなどの沿岸部やベッカー高原などは山岳レバノン直轄県には含まれず、引き続きシリア州の一部としてオスマン帝国の直接統治下に置かれた。

初代の総督として、アルメニア・カトリックを信仰するダウド・エフェンディがフランスの推薦で任命された。ダウドは、レバノンに効率的な官僚組織をもたらすと同時に、ベイト・エッディーンに政府の印刷所を作り、レバノン最初の官報を発行させた。ダウドの改革は、宗派間の衝突を急速に沈静化させることには成功したが、それは山岳レバノンの北部をマロン教徒、南部をドゥルーズの勢力圏とすることで、対立の構図を固定化する形での解決でもあった。その意味ではこの「組織規約」における改革は、マロン教徒が政治的な優位を占めたという相違点はあるものの、1842年の行政改革の方向性を引き継いだものであると言える。

また、文化的覚醒とフランスの支援を受けて発展した産業を中心に、レバノンは、経済的繁栄を遂げた。加えて、総督制は、山岳レバノンの自治を保障するものであり、キリスト教徒の利益にかなっていたが、この政治的経験は、首長国時代には保有していたベッカー高原、ベイルート、トリポリ、シドンの回復を主張するようになっていく。この大レバノン主義は、キリスト教徒優位であった状態が将来的には覆る結果となる(これら4地域を併呑した場合、人口構成が著しく変化し、ムスリムが多数派になる)。このことが、国家としてのレバノンが政治的脆弱性を内包することになった。

文化的ナショナリズムの高揚

オスマン帝国の直接統治下におかれていたベイルートでは、当時レバノンで盛んに活動していたプロテスタントの宣教団(ベイルート・アメリカン大学の前身を開設したことでも知られる)などとの接触に影響を受けて、文化的なアラブ・ナショナリズムの高揚が見られるようになり、アラビア語による辞書や百科事典の編纂で知られるブトルス・アル=ブスターニーのような、キリスト教徒のアラブ知識人による盛んな文化活動が行われるようになった。

オスマン帝国の直接統治下の多民族・多宗教の混淆状態の中で、宗派対立と諸外国の介入に直面していたキリスト教徒のアラブ知識人にとって、宗派対立を超越・収束するための解決策が求められていた。この結果、ブスターニーは言語に民族の紐帯を見いだし、自らが「アラビア語を話すアラブ」という点においてムスリムのアラブと何ら変わるところがない以上、「アラブ」であると規定するのは宗教ではなく言語であるという考えを持つに至った。

このような文化的ナショナリズムも、始まりは外国の宣教団に影響を受けたキリスト教徒のみによる運動であった。しかし、ブスターニーらは1857年に全宗派を対象としたシリア学術協会(科学協会)を設立し、徐々にではあるがムスリム知識人の間にも理解者を増やしていった。ただし、シリア学術協会という名前が示すように、レバノンが主な活動地域であったとはいえ、彼らの問題意識が歴史的シリア全体に向かっていたことには留意する必要がある。

オスマン統治の終焉 1908-1918

文化的ナショナリズムはやがて政治的な主張へと移り、キリスト教徒を中心にオスマン帝国からの独立を主張する勢力が登場するようになった。一方で長年自治の恩恵に浴していた山岳レバノンでさえ、1908年青年トルコ人革命の際には再開されたオスマン帝国議会への参加を求める声がドゥルーズを中心にあがるなど(山岳レバノン直轄県は「組織規約」の存在を理由にオスマン帝国憲法が適用されず、1877年に開会した帝国議会にも参加していなかった。1908年の場合も最終的に山岳レバノンは帝国議会への不参加を決めた)、20世紀初頭の段階では、帝国内に留まることへの支持も未だ根強いものがあった。

しかし、中央集権体制による国家の再建を目指す青年トルコ人革命後のオスマン政府は、独立の主張はもちろん、比較的穏健な自治の要求に対しても強い警戒を示し、また山岳レバノンに対しても影響力の回復を考えるようになった。様々な妥協が試みられたものの、拭いがたい相互不信は最終的に第一次世界大戦中の1915年に「統一と進歩委員会」の首脳の一人であったジェマル・パシャが行った、ベイルートにおけるアラブ知識人の処刑と、残ったアラブ知識人の「アラブ反乱」への支持というところにまで行き着く。こうしてレバノンにおけるオスマン帝国の統治は末期的な状況に陥り、1918年を迎えることになった。

現代

参考文献

堀口松城 『レバノンの歴史』(明石書店、2005) ISBN 4-7503-2231-8




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