マーン家の統治 1618-1697
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レバノンにおいては、1120年に、十字軍の攻撃に対して防衛するためにレバノンに入ったマーン家のファハル・アッディーン2世が帝国への挑戦を行った。 ファハルは、オスマン帝国に年貢を納めつつ南レバノンとシドンを治めたドゥルーズの指導者であり、ベドウィンによる略奪を防ぎ、交易の振興に当たっていた。しかし、南レバノンとシドンにとどまらず、ベイルートを自らの傘下におさめ、かつ、各地の要塞を修築していたことで、帝国の不興を買う形となり、帝国の軍事的攻勢を受け、1613年、イタリアへ逃亡した。また、ファハル傘下の軍隊は各地でオスマン帝国への抵抗を続けた。 1618年、イタリアから帰国したファハルは、イタリアで学んだ知識を活用した。強力で、なおかつ規律の取れた軍隊を組織することを認識していたし、また、自らの財産によって正規軍の創設に踏み切った。1623年には、ファハルの軍隊は、 ビカ渓谷のアンジャールにおいて、オスマン帝国軍132,000人を破った。そのことにより、翌年、アレッポからエルサレムにいたるアラビスタン地方の支配が正式に帝国から認められることとなる。 その後、ファハルは、北レバノンのアッカ、ジュベイルなど、山岳レバノンを統一するとともに、レバノン海岸部のトリポリまでを支配下に入れたが、このような勢力の拡大が中央政府との衝突を再び生み、息子とともにイスタンブールに連行された後、1635年に処刑された。これらの功績より、現代レバノンにおいて、ファハルは、「独立の父」として教育されている。
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