クレルモン教会会議
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クレルモン教会会議(クレルモンきょうかいかいぎ)は、1095年11月にクレルモン(現・クレルモン=フェラン)で開かれた教会会議で、教皇ウルバヌス2世が招集した。この教会会議は教皇ウルバヌス2世が行った十字軍宣言で有名である。クレルモン公会議とも訳されるが、現在は教会会議と訳されることが多い[1]。クレルモン宗教会議ともいう[2]。
十字軍宣言
ウルバヌス2世は会議の最後に、群集に向けて演説を行った。これは第1回十字軍およびその後約2世紀にわたってカトリック世界のすべての人を巻き込んだ十字軍運動の直接的契機となったことで非常に有名である。彼は東方のキリスト教国(主に東ローマ帝国)の苦難と異教徒に対する聖戦が必要であり、十字軍へ参加した者は罪が許されると訴えた。人々は熱狂し、"Dieu le veult!"(神の望みのままに!)と答えたという(この言葉は史料の不確かさから疑う研究者も多い)。
演説の記録者
ウルバヌス2世が行った演説は、以下に挙げる4人などの12世紀の年代記作者によって記録された。またフルケリウスの記録が今日ではもっとも信頼性が高いと言われている。[要出典]
- フルケリウス
- ロベルトゥス
- バルドリクス
- ギベルトゥス
脚注
参考文献
- 八塚春児 『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』 NHKブックス:日本放送出版協会、2008年
関連項目
外部リンク
クレルモン教会会議
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詳細は「クレルモン教会会議」を参照 1095年3月、アレクシオス1世はピアチェンツァ教会会議に特使を派遣、時の教皇ウルバヌス2世に対セルジューク朝戦への援助を求めた。ウルバヌス2世はこれを快く受け入れた。カトリック教会の側では常に正教会が自らへ帰属する形としての服従を望んでおり、教皇は今こそ正教会との不幸な決裂を乗り越え、ローマ教皇の下に併合される形での教会再合同の好機がおとずれたと考えた。ウルバヌス2世は1095年の春から夏にかけ、半年以上にわたりフランス中南部を遊説し、東方への軍団派遣の構想を練ってゆく。 1095年11月にフランスのクレルモンで行われた教会会議で、教皇は重大発表を行うと宣言した。発表の日、居合わせたフランスの貴族たちと聖職者に向かって教皇は、イスラム教徒の手から聖地エルサレムを奪回しようと訴えた。彼は、人口が増えすぎたフランス人にとって聖地こそがまさに「乳と蜜の流れる土地」であると訴え、この行動に参加するものには地上において天において報いが与えられること、もし軍事行動の中で命を落としても免償が与えられることを告げた。この呼びかけに居合わせた群集の熱気は高まり、「神のみむねのままに!」という叫びがこだました。 ウルバヌス2世の十字軍勧誘説教は、ヨーロッパの歴史に残る名演説の一つであるといわれるが、第1回十字軍の成功後に記録が書かれたため、実際にどんなことを教皇が言ったのか、現代では知ることが難しい。ただ一つ間違いないことは、教皇の訴えが群集の熱狂を引き起こし、教皇の意図を上回る規模の反響が起こったということである。教皇は1095年から1096年にかけて、フランス、イタリア、ドイツといった各地の司教に同じような内容の呼びかけを行わせた。 その際、この行動には女性、修道士、病気の者は参加することができないと付け加えていたが、熱狂する集団の耳には届かなかった。この呼びかけは農民や農奴も熱狂した。彼らはエルサレムへ赴くだけの蓄えも戦闘技術もなかったが、日常の抑圧から逃れたいという宗教的情熱に身を焦がし、先進的な東方文明での富貴を願っていたため、そんなことは問題ではなかった。教会の指導者や領主たちがどれだけ厳しく禁じても、熱狂的な庶民が聖地へ向かって集団移動することは止めることができなかった。
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