カルトジオ会のはじまりと司教叙任の拒否
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「ケルンのブルーノ」の記事における「カルトジオ会のはじまりと司教叙任の拒否」の解説
ランスではブルーノを司教に望む声が高まったが、ブルーノは世俗的なことに関わることを避ける誓いを立て、これを辞退した。ブルーノに隠棲の志が起こったのは、この頃からであったようである。ブルーノはケルン時代の友人とともに、当時有名だった隠修士モレームのロベールの指導を受けた。ロベールはそれより少し前の1075年、ラングル教区内のモレーム近郊、セッシュ=フォンテーヌに他の隠修士とともに共住修道生活をはじめていた(1098年にこの共同体はシトー会として認可される)。しかしブルーノはほどなくロベールの共同体自体に自分の召命がないことを悟る。ロベールのもとに短期間滞在したのち、ブルーノは6人の同志とともに、グルノーブル司教ユーグのもとに向かった。聖人伝によると、ユーグはその少し前に幻で彼らが七つの星のもとに居るのをみたという。ユーグは彼らを受けて、1084年、グルノーブルから遠くないドーフィネの山中の寂れた場所に彼らを落ち着かせた。この場所をグランド・シャルトルーズという。シャルトルーズ会ないしカルトジオ会のはじまりである。一行は、ブルーノの他、4人の聖職者と2人の平信徒からなっていた。 7人は、孤立した貧しい生活をささやかに営み、祈りと研究に没頭した。彼らの学識はよく知られており、ユーグ司教もしばしば彼らを訪れた。 そのさなかに、ブルーノの弟子、シャティヨンのユードがウルバヌス2世として即位した(1088年)。ウルバヌス2世は、前任者グレゴリウス7世が始めた教会改革を続け、また対立教皇ラヴェンナのグイベルトやその擁立者・神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対抗するために、有能で信頼できる協力者を必要としており、1090年に師であるブルーノをローマに召喚した。 ブルーノがローマでどのような地位を占めていたか、同時代の事件にどのような影響力を及ぼしたかは、機密の壁に隠されていて、ほとんど知られていない。ローマでは、ラテラン宮殿に教皇とともに住み、側近との秘密の会合に近侍し、助言者として働く一方、ローマ内外の敵対者や教皇庁内の権力闘争からは巧みに身をおいた。ブルーノは徹底して黒子に徹した。ウルバヌス2世が第一回十字軍を呼びかけたクレルモン教会会議にすらブルーノは出席していない。一方、ベネヴェント教会会議(1091年3月)には、ブルーノも出席したようである。 ブルーノがローマに到着した直後にハインリヒ4世が南下してきたため、教皇側は南イタリアへの疎開を余儀なくされた。南への疎開中、ブルーノはレッジョ・カラブリアで注目を集めた。この土地はちょうど大司教アルヌルフを喪ったばかりであった(1090年)。そこで教皇とプーリア公ルッジェーロは、ブルーノの推戴を強力に支持し、受諾するようブルーノに圧力をかけた。ブルーノはいったん受諾するかと思われたが、これを固辞してサレルノのあるベネディクト会修道院へ入り、グルノーブルでの隠棲生活に戻りたい意志を書簡で明確に伝えた。しかし教皇が彼を手元に置くことを強く望んだため、フランスには帰らずイタリアに留まった。 1091年、スクィラーチェ教区内でブルーノは幾人かの追随者とともに新しい隠修共同体をはじめた。森で覆われた小さな谷間に、彼らは木造の礼拝堂と小屋を建てた。この共同体は聖母マリアに捧げられていた。シチリア兼カラブリア伯ルッジェーロ1世が彼らの庇護者となり、その土地を寄進するとともに友情を育んだ。ルッジェーロが病気になるとブルーノは彼をミレトの宮廷に訪ね(1098年と1101年)、また息子のルッジェーロに洗礼を施している(1097年)。ルッジェーロはしばしばブルーノを訪ね、ブルーノの共同体内に自身のために小さな家を建ててさえいる。ルッジェーロの寄進により、聖ステファノに捧げられた修道院が1095年に完成した。 世紀の変わり目近くに、ブルーノの友人たちは次々と世を去った。ウルバヌス2世が1099年に、グランド・シャルトルーズの修道院の創設メンバーでありこの修道院を監督したランドゥインが1100年に、ルッジェーロ1世が1101年になくなった。ブルーノは後を追うように、1101年10月6日に死去した。
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