第1回十字軍の成功後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:05 UTC 版)
「第1回十字軍」の記事における「第1回十字軍の成功後」の解説
第1回十字軍は、エルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国、トリポリ伯国の十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させ、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成した。第1回十字軍が成功したことは、誰にとっても予想外な出来事だった。君主層は西欧の安定によって失われていた武力の矛先を富み栄えた東方に見出し、占領地から得た略奪品によって遠征軍は富を得ることができた。また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国といった北イタリアの都市国家である。これらイタリア諸都市は占領地との交易を行い、東西交易(レヴァント貿易)で大いに利益を得た。 エルサレムから西欧に帰ってきた将兵たちは、英雄視された。フランドルのロベール2世はエルサレムにちなんで「ヒエロソリュマタヌス」と呼ばれた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンの生涯は死後数年を経たずして伝説となり武勲詩などに歌われた。一方、十字軍将兵の不在はその間の西欧情勢に変動をもたらした。例えば、ノルマンディー地方は領主ロベール・カルトゥース(ノルマンディー公ロベール)不在の間に弟ヘンリー1世の手に渡っていた。帰還した兄は弟と争い、1106年にはタンシュブレーの戦いが起きた。 また、東ローマ帝国は十字軍国家が建国されたことで、イスラム諸国からの圧迫はなくなったが、今度は十字軍国家と対立することになった。 正教会とカトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機の一つだったにもかかわらず、両者の溝は十字軍により深刻化した。両教会はそれまで、教義上は分裂しつつも名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が正教会のエルサレム総主教を追放し、カトリックの総大司教を置いたことで、この微妙な関係は崩れ断絶が深まった。この緊張はコンスタンティノープルが徹底的に略奪される第4回十字軍において頂点に達することになる。 イスラム諸国は依然として内紛をやめず、争いに十字軍国家を利用するため、これらと同盟を結んだ。このあとイスラム勢力の軍もいくつかの戦いで十字軍を破ったが、積極的な反十字軍を企図する者は現れなかった。イスラム国家が西からのキリスト教徒を放逐するのは、12世紀中葉のザンギー朝のヌールッディーンとアイユーブ朝のサラーフッディーンの時代になる。
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