第1回印象派展まで
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「クロード・モネ」の記事における「第1回印象派展まで」の解説
100km イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ノルマンディー地域圏 パリ アルジャントゥイユ ブージヴァル ポワシー ヴェトゥイユ ジヴェルニー フォンテーヌブロー シャイイ セーヌ川 モネは、1871年12月、パリ近郊のセーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えた。家を世話してくれたのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。アルジャントゥイユでは、1878年初めまでの6年あまりを過ごし、この間に約170点の作品を残している。その約半数がセーヌ河畔の風景である。この間、マネのほか、ルノワール、シスレーも頻繁にモネを訪ねた。ルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネを描いている。 同時に、パリのサン=ラザール駅近くにも1874年までアトリエを持ち、ルノワールとともにポンヌフの橋を描いたり、頻繁にブーダンと会ったりしていた。 1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政のフランスは普仏戦争後の復興期にあたり、一時的な好景気を呈していた。デュラン=リュエルがモネの絵画を多数購入するなどして、経済的には余裕が生まれた。デュラン=リュエルと接触のあったピサロ、シスレー、ドガとともに、1872年のサロンに作品を送っていないのは、このことも理由と思われる。1873年には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟、批評家テオドール・デュレといった買い手が現れた。 モネは、そのお金で小さなボートを購入し、アトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作した。これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになった。このアトリエ舟の発想は、水辺の画家ドービニーから学んだ可能性がある。マネがアトリエ舟で制作するモネの様子を描いており、モネ自身もアトリエ舟を作品に登場させている。 1869年と1870年のサロンに続けて落選して以来、サロンから手を引いていたモネは、ピサロ、ドガ、ルノワールらとともに、サロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになった。1873年4月には、ピサロに「みんな賛成してくれている。反対なのはマネだけだ」と書き送っている。デュラン=リュエルが、経済的に苦しくなってきて、以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想の早期実現を促す要素となった。 1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。そして、サロン開幕の2週間前である1974年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社(株式会社とも訳せる)の第1回展を開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。マネは、サロンでの成功に支障が生じるのを恐れ、参加しなかった。 モネは、この第1回展に、『印象・日の出』、『キャピュシーヌ大通り』、カミーユとジャンを描いた『昼食』などの油絵5点、パステル画7点を出品した。 第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物があまりにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。この文章がきっかけで「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。もっとも、必ずしもルイ・ルロワが初めて使い始めた言葉ではなく、当時の批評家たちがこのグループ展を指す際、「印象」や「印象派」という言葉は共通したキーワードとなっていた。第1回印象派展の入場者は約3,500人であったが、サロンが同じ1か月間で約40万人を集めていたのとは比べるべくもなく、来場者の大半が絵を嘲笑しに来た客であった。売り上げも、メンバーが支払った会費60フランすら回収できないという惨状に終わった。共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した。 『印象・日の出』1872年。油彩、キャンバス、48 × 63 cm。マルモッタン・モネ美術館。第1回印象派展出品か(W77)。 『アルジャントゥイユのレガッタ(フランス語版)』1872年ごろ。油彩、キャンバス、48 × 75 cm。オルセー美術館(W233)。 『キャピュシーヌ大通り』1873年。油彩、キャンバス、80.3 × 60.3 cm。ネルソン・アトキンス美術館(カンザスシティ)。第1回印象派展出品か(W293)。 『ひなげし』1873年。油彩、キャンバス、50 × 50 cm。オルセー美術館。第1回印象派展出品(W274)。 『昼食』1873年。油彩、キャンバス、160 × 201 cm。オルセー美術館。『装飾的パネル』と題されて第2回印象派展出品(W285)。 『アトリエ舟』1874年。油彩、キャンバス、50 × 64 cm。クレラー・ミュラー美術館(W323)。
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第1回印象派展まで
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「カミーユ・ピサロ」の記事における「第1回印象派展まで」の解説
ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住んだ。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描いていった。デュラン=リュエルがモネ、ピサロやその仲間の絵を購入してくれたことにより、生活は初めて安定した。デュラン=リュエルの帳簿には、1872年にはピサロに5900フラン、1873年には5300フランが支払われたことが記されており、普通の労働者の平均年収をはるかに超える額であった。ピサロは1873年2月、テオドール・デュレに「デュラン=リュエルはよく頑張っています。私達も様々な意見に悩まされることなく、前進していかなければならないでしょう。」という一節がある。 ポントワーズでは、ピサロの周辺にギヨマン、ピエット、オラー、ポール・ゴーギャン、セザンヌといった画家たちが集まってきた。中でも、ピサロはセザンヌの才能を認め、イーゼルを並べて制作するうちに互いに影響しあった。セザンヌは後にピサロについて、「私にとって、父親のような存在だった。相談相手で、神のような人だった」と述べている。 ピサロは第三共和政に入って最初の1872年のサロンと、1873年のサロンに、モネ、シスレー、ドガとともに、応募しなかった。 1873年4月頃から、モネとピサロを中心にグループ展の構想が具体化し始め、ピサロはエドゥアール・ベリアール(英語版)など仲間の画家たちを勧誘していった。ピサロは夏から秋にかけて、ポントワーズのパン屋の組合の条項を基に組織の規約を起草した。ピサロの草案は、民主的なものであり、組織は参加者の入会金で運営され、参加者は平等の権利を有することとされた。禁止条項や罰則も提案したようである。ただ、いくつかの点でモネやルノワールの反対を受け、長期間にわたり議論を続けている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。ピサロは、モネとともに、運営委員の1人に指名されている。エドガー・ドガは、ピサロやモネと芸術的傾向がかなり異なっていたが、守旧的なサロンから独立した展覧会を開くという構想に共鳴し、参加した。ピサロはポントワーズの画家仲間に参加を勧め、特に、セザンヌの参加を強く主張した。他方、バティニョール派の中心人物マネは、セザンヌと関わりたくないことを口実に、参加しなかった。ピサロは、2月、友人テオドール・デュレから、私的な展覧会で発表しても公衆に知ってもらうことはできないので、グループ展ではなくサロンに応募すべきだと忠告する手紙を受け取ったが、グループ展参加の決意を変えることはなかった。 そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。ピサロは、第1回印象派展に『果樹園』、『白い霜』など5点を出品した。 第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家のルイ・ルロワがこの展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。その中で、ルロワはピサロの『白い霜』を取り上げ、登場人物に「汚いキャンバスの上に、パレットの削り屑を一様に置いているだけでしょう。」と語らせている。第1回印象派展は、経済的には失敗で、共同出資会社は、同年12月に債務清算のため解散した ピサロは、テオドール・デュレに「展覧会はうまくいき、成功した。しかし、批評家たちは我々を批判し、研究をしていないと罵る。私は研究に立ち戻ることにする。何も学ぶものがない彼らの言葉を読むよりは、ずっとましだから。」と書き送っている。なお、ピサロは、この年4月6日に第2子ミネット(9歳)を亡くし、7月24日には第5子(三男)フェリックス・ピサロ(英語版)が生まれた。 『ポントワーズのオワーズ川のほとり』1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション。 『果樹園』1872年。油彩、キャンバス、45.1 × 54.9 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。第1回印象派展出品。 『ポントワーズの眺め』1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション。 『白い霜』1873年。油彩、キャンバス、65.5 × 93.2 cm。オルセー美術館。第1回印象派展出品。
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第1回印象派展まで(1871年-1874年)
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「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「第1回印象派展まで(1871年-1874年)」の解説
100km イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ノルマンディー地域圏 パリ ルーヴシエンヌ アルジャントゥイユ フォンテーヌブロー シャイイ セーヌ川 第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した。ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。1873年のサロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた。 モネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている。 なお、以前ルノワールが交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家と結婚した。ルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである。 少しずつ愛好家が増えてきたことで、1873年秋、パリ9区のサン=ジョルジュ通り(フランス語版)に広いアトリエ兼住居を借りることができた。すぐ近くにはドガのアトリエもあった。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し、財務省官吏ジョルジュ・リヴィエール、音楽家カバネル、画家志望のフレデリック・コルデー(フランス語版)、フラン=ラミ、ロートなど、ルノワールの友人たちもここを訪れた。ルノワールがポンヌフを通る群衆を描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人のスケッチをしやすいようにした。 また、モネは、1871年からアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し、一緒に制作して風景画の傑作を生み出した。ルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。この時期、モネ、ルノワール、シスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割を用いて自然の一瞬の姿をキャンバスに写し取るための統一した様式を生み出した。 この頃、モネやピサロを中心に、サロンから独立したグループ展の構想が具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見を述べている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社(フランス語版)」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。 そして、サロン開幕の2週間前である同年4月15日に始まり、5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り(英語版)の写真家ナダールの写真館で、この共同出資会社の第1回展が開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人が参加し、展示作品は合計165点ほどであった。展覧会カタログは、弟エドモンが制作した。展覧会の構成は、主にルノワールが取り仕切った。 ルノワールは、7点を出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ(青衣の女)』など風俗画5点、風景画1点、静物画1点であった。 しかし、第1回展は、世間から厳しい酷評にさらされた。第1回展の開会後間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会を訪れた人物が余りにひどい作品に驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評「印象派の展覧会」を発表した。その中で、ルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物が背景に溶け込むような不明瞭な輪郭を批判している。この文章がきっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名が世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し、画家たち自身によっても使われるようになった。 1874年の第1回印象派展終了後、モネ、ルノワール、マネ、シスレー、カイユボットは、アルジャントゥイユに集まり、共に制作した。モネとルノワールは、同じ構図・モチーフで『アルジャントゥイユの帆船』を制作しているが、モネが現実から抽出した要素をパターン化して表現しているのに対し、ルノワールは現実の情景をより忠実に描いており、また、人物が強調されており、2人の個性の違いを示している。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている。 同年(1874年)12月17日、サン=ジョルジュ通りのルノワールのアトリエで、共同出資会社の総会が開かれ、債務清算のため共同出資会社を解散することが決まった。 『ポンヌフ(フランス語版)』1872年。油彩、キャンバス、75.3 × 93.7 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)』1872年。油彩、キャンバス、156 × 128.8 cm。国立西洋美術館。1872年サロン落選。 『アルジャントゥイユの庭で制作するモネ』1873年。油彩、キャンバス、47 × 60 cm。ワズワース・アセニウム(英語版)(ハートフォード)。 『ブーローニュの森の朝の乗馬』1873年。油彩、キャンバス、226 × 262 cm。ハンブルク美術館。1873年サロン落選、落選展出品。 『踊り子』1874年。油彩、キャンバス、142.5 × 94.5 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。第1回印象派展出品。 『桟敷席』1874年。油彩、キャンバス、80 × 64 cm。コートールド・ギャラリー。第1回印象派展出品。 『パリジェンヌ(青衣の女)』1874年。油彩、キャンバス、163.2 × 108.3 cm。カーディフ国立博物館。第1回印象派展出品。 『モネ夫人と息子』1874年。油彩、キャンバス、50.4 × 68 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『アルジャントゥイユの帆船』1874年。油彩、キャンバス、50.2 × 65.4 cm。ポートランド美術館。
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