第1回印象派展までとは? わかりやすく解説

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第1回印象派展まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「第1回印象派展まで」の解説

100km イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ノルマンディー地域圏 パリ アルジャントゥイユ ブージヴァル ポワシー ヴェトゥイユ ジヴェルニー フォンテーヌブロー シャイイ セーヌ川 モネは、1871年12月パリ近郊セーヌ川面したアルジャントゥイユアトリエ構えた。家を世話してくれたのは、セーヌ川対岸ジュヌヴィリエ広大な土地所有していたマネであったアルジャントゥイユでは、1878年初めまでの6年あまりを過ごしこの間に約170点の作品残している。その約半数セーヌ河畔風景である。この間マネのほか、ルノワールシスレー頻繁にモネ訪ねたルノワールは、アルジャントゥイユの庭で制作するモネ描いている。 同時にパリサン=ラザール駅近くにも1874年までアトリエ持ちルノワールとともにポンヌフ描いたり、頻繁にブーダン会ったりしていた。 1872年ごろから1874年ごろまで、第三共和政フランス普仏戦争後の復興期にあたり一時的な好景気呈していた。デュラン=リュエルがモネ絵画多数購入するなどして、経済的に余裕生まれたデュラン=リュエルと接触のあったピサロシスレードガとともに1872年サロン作品送っていないのは、このことも理由思われる1873年には、デュラン=リュエルのほかに、銀行家のエクト兄弟批評家テオドール・デュレといった買い手現れた。 モネは、そのお金小さなボート購入しアトリエ舟に仕立てセーヌ川浮かべて制作した。これにより、低い視線から刻々と変化する水面を描くことができるようになった。このアトリエ舟の発想は、水辺画家ドービニーから学んだ可能性がある。マネアトリエ舟で制作するモネ様子描いており、モネ自身アトリエ舟を作品登場させている。 1869年1870年サロン続けて落選して以来サロンから手を引いていたモネは、ピサロドガルノワールとともにサロンとは独立した展覧会を開くという構想を持つようになった1873年4月には、ピサロに「みんな賛成してくれている反対なのはマネだけだ」と書き送っている。デュラン=リュエルが、経済的に苦しくなってきて、以前のように絵を買えなくなったという事情も、この構想早期実現促す要素となった1874年1月17日、「画家彫刻家版画家等の芸術家共同出資会社フランス語版)」の規約発表された。審査報奨もない自由な展覧会組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入10分の1を基金入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。そして、サロン開幕2週間前である1974年4月15日始まり5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り英語版)の写真家ナダール写真館で、この共同出資会社株式会社とも訳せる)の第1回展開催した。のちに「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人参加し展示作品合計165点ほどであったマネは、サロンでの成功支障生じるのを恐れ参加しなかった。 モネは、この第1回展に、『印象・日の出』、『キャピュシーヌ大通り』、カミーユジャン描いた昼食』などの油絵5点パステル画7点出品した第1回展開会間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会訪れた人物あまりにひどい作品驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評印象派展覧会」を発表した。この文章きっかけで「印象主義」「印象派」という呼び名世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し画家たち自身によっても使われるようになった。もっとも、必ずしもルイ・ルロワ初め使い始め言葉ではなく当時の批評家たちがこのグループ展を指す際、「印象」や「印象派」という言葉共通したキーワードとなっていた。第1回印象派展入場者は約3,500であったが、サロンが同じ1か月間で約40万人集めていたのとは比べるくもなく来場者大半が絵を嘲笑しに来た客であった売り上げも、メンバー支払った会費60フランすら回収できないという惨状終わった共同出資会社は、同年12月債務清算のため解散した。 『印象・日の出1872年油彩キャンバス48 × 63 cmマルモッタン・モネ美術館第1回印象派展出品か(W77)。 『アルジャントゥイユレガッタフランス語版)』1872年ごろ。油彩キャンバス48 × 75 cmオルセー美術館(W233)。 『キャピュシーヌ大通り1873年油彩キャンバス、80.3 × 60.3 cmネルソン・アトキンス美術館カンザスシティ)。第1回印象派展出品か(W293)。 『ひなげし1873年油彩キャンバス50 × 50 cmオルセー美術館第1回印象派展出品(W274)。 『昼食1873年油彩キャンバス、160 × 201 cmオルセー美術館。『装飾的パネル』と題され第2回印象派出品(W285)。 『アトリエ舟』1874年油彩キャンバス50 × 64 cmクレラー・ミュラー美術館(W323)。

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第1回印象派展まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)

カミーユ・ピサロ」の記事における「第1回印象派展まで」の解説

ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズエルミタージュ地区住んだ。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々市場様子など、田園日常の姿を描いていった。デュラン=リュエルがモネピサロやその仲間の絵を購入してくれたことにより、生活は初め安定したデュラン=リュエルの帳簿には、1872年にはピサロに5900フラン1873年には5300フラン支払われたことが記されており、普通の労働者平均年収はるかに超えるであったピサロ1873年2月テオドール・デュレに「デュラン=リュエルはよく頑張ってます。私達様々な意見悩まされることなく前進していかなければならないでしょう。」という一節がある。 ポントワーズでは、ピサロ周辺にギヨマン、ピエット、オラー、ポール・ゴーギャンセザンヌといった画家たち集まってきた。中でもピサロセザンヌ才能認めイーゼル並べて制作するうちに互いに影響しあった。セザンヌは後にピサロについて、「私にとって、父親のような存在だった。相談相手で、神のような人だった」と述べている。 ピサロ第三共和政入って最初1872年サロンと、1873年サロンに、モネシスレードガとともに応募しなかった。 1873年4月頃から、モネピサロ中心にグループ展の構想具体化し始めピサロはエドゥアール・ベリアール(英語版)など仲間画家たち勧誘していった。ピサロ夏から秋にかけて、ポントワーズパン屋組合条項を基に組織規約起草したピサロ草案は、民主的なものであり、組織参加者入会金運営され参加者は平等の権利有することとされた。禁止条項罰則提案したようである。ただ、いくつかの点でモネルノワール反対を受け、長期間にわたり議論続けている。1874年1月17日、「画家彫刻家版画家等の芸術家共同出資会社フランス語版)」の規約発表された。審査報奨もない自由な展覧会組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入10分の1を基金入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。ピサロは、モネとともに運営委員1人指名されている。エドガー・ドガは、ピサロモネ芸術的傾向がかなり異なっていたが、守旧的なサロンから独立した展覧会を開くという構想共鳴し参加したピサロポントワーズ画家仲間参加勧め、特に、セザンヌ参加強く主張した他方、バティニョール派の中心人物マネは、セザンヌ関わりたくないことを口実に、参加しなかった。ピサロは、2月友人テオドール・デュレから、私的な展覧会発表して公衆知ってもらうことはできないので、グループではなくサロン応募すべきだ忠告する手紙受け取ったが、グループ参加決意変えることはなかった。 そして、サロン開幕2週間前である同年4月15日始まり5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り英語版)の写真家ナダール写真館で、この共同出資会社第1回展開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人参加し展示作品合計165点ほどであったピサロは、第1回印象派展に『果樹園』、『白い』など5点出品した第1回展開会間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワがこの展覧会訪れた人物余りにひどい作品驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評印象派展覧会」を発表したその中でルロワピサロの『白い』を取り上げ登場人物に「汚いキャンバスの上に、パレット削り屑一様に置いているだけでしょう。」と語らせている。第1回印象派展は、経済的に失敗で、共同出資会社は、同年12月債務清算のため解散した ピサロは、テオドール・デュレに「展覧会うまくいき、成功した。しかし、批評家たちは我々を批判し研究をしていない罵る。私は研究立ち戻ることにする。何も学ぶものがない彼らの言葉を読むよりは、ずっとましだから。」と書き送っている。なお、ピサロは、この年4月6日第2子ミネット(9歳)を亡くし7月24日には第5子(三男フェリックス・ピサロ英語版)が生まれた。 『ポントワーズオワーズ川のほとり』1872年油彩キャンバス35 × 91 cm個人コレクション。 『果樹園1872年油彩キャンバス、45.1 × 54.9 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。第1回印象派展出品。 『ポントワーズ眺め1873年油彩キャンバス55 × 81 cm個人コレクション。 『白い1873年油彩キャンバス、65.5 × 93.2 cmオルセー美術館第1回印象派展出品

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第1回印象派展まで(1871年-1874年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:28 UTC 版)

ピエール=オーギュスト・ルノワール」の記事における「第1回印象派展まで(1871年-1874年)」の解説

100km イル=ド=フランス地域圏 オー=ド=フランス地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏 ノルマンディー地域圏 パリ ルーヴシエンヌ アルジャントゥイユ フォンテーヌブロー シャイイ セーヌ川 第三共和政になってからのサロンは、保守性増したルノワールは、1872年サロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリ女たち』を応募したが、落選した1873年サロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選しこの年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評批判的な批評出たが、エドガー・ドガ友人アンリ・ルアール購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘リーズ』を勧めてくれ、デュレ1200フラン購入してくれた。 モネピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品購入するようになった1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバー比べルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年購入額は500フラン1873年購入額は100フランとどまっている。 なお、以前ルノワール交際していたリーズ・トレオは、1872年4月、若い建築家結婚したルノワールは、お祝いに彼女の肖像画を贈ったが、その後会うことはなかったようである。 少しずつ愛好家増えてきたことで、1873年秋、パリ9区サン=ジョルジュ通りフランス語版)に広いアトリエ住居借りることができた。すぐ近くにはドガアトリエもあった。サン=ジョルジュ通りには、ジャーナリスト志望だった弟のエドモン・ルノワールが同居し財務省官吏ジョルジュ・リヴィエール音楽家カバネル画家志望のフレデリック・コルデー(フランス語版)、フラン=ラミロートなど、ルノワール友人たちもここを訪れたルノワールポンヌフを通る群衆描いた時、弟エドモンは、通行人に声をかけて足止めさせ、兄が通行人スケッチしやすいようにした。 また、モネは、1871年からアルジャントゥイユアトリエ構えたが、ルノワールは、1873年から1875年にかけて、モネのもとを度々訪問し一緒に制作して風景画傑作生み出したルノワールは、戸外制作をするモネの姿も描いている。この時期モネルノワールシスレーらは、アルジャントゥイユで共に制作する中で、筆触分割用いて自然の一瞬の姿をキャンバス写し取るための統一した様式生み出したこの頃モネピサロ中心にサロンから独立したグループ展の構想具体化しつつあった。ルノワールも、規約について意見述べている。1874年1月17日、「画家彫刻家版画家等の芸術家共同出資会社フランス語版)」の規約発表された。審査報奨もない自由な展覧会組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。 そして、サロン開幕2週間前である同年4月15日始まり5月15日までの1か月間、パリ・キャピュシーヌ大通り英語版)の写真家ナダール写真館で、この共同出資会社第1回展開催された。後に「第1回印象派展」と呼ばれる歴史的展覧会であり、画家30人参加し展示作品合計165点ほどであった展覧会カタログは、弟エドモン制作した展覧会の構成は、主にルノワール取り仕切ったルノワールは、7点出品し、『踊り子』、『桟敷席』、『パリジェンヌ青衣の女)』など風俗画5点風景画1点静物画1点であった。 しかし、第1回展は、世間から厳し酷評さらされた。第1回展開会間もない4月25日、『ル・シャリヴァリ(英語版)』紙上で、評論家ルイ・ルロワが、この展覧会訪れた人物余りにひどい作品驚きあきれる、というルポルタージュ風の批評印象派展覧会」を発表したその中でルノワールの『踊り子』について、作者を「ギヨマン」と誤記しているが、人物背景溶け込むような不明瞭な輪郭批判している。この文章きっかけで、「印象主義」「印象派」という呼び名世に知られるようになり、次第にこのグループの名称として定着し画家たち自身によっても使われるようになった1874年第1回印象派展終了後モネルノワールマネシスレーカイユボットは、アルジャントゥイユ集まり、共に制作したモネルノワールは、同じ構図モチーフで『アルジャントゥイユ帆船』を制作しているが、モネ現実から抽出した要素パターン化して表現しているのに対しルノワール現実情景をより忠実に描いており、また、人物強調されており、2人個性違い示している。モネ回想によれば1874年マネルノワールが、アルジャントゥイユモネの家で、モネの妻カミーユと息ジャン一緒に描いたことがあったが、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワール賞賛していたので、このエピソードは、ルノワール競い合ったマネ苛立ち表したものにすぎないとも指摘されている。 同年1874年12月17日サン=ジョルジュ通りルノワールアトリエで、共同出資会社総会開かれ債務清算のため共同出資会社解散することが決まった。 『ポンヌフフランス語版)』1872年油彩キャンバス、75.3 × 93.7 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。 『アルジェリア風のパリ女たちハーレム)』1872年油彩キャンバス156 × 128.8 cm国立西洋美術館1872年サロン落選。 『アルジャントゥイユの庭で制作するモネ1873年油彩キャンバス47 × 60 cm。ワズワース・アセニウム(英語版)(ハートフォード)。 『ブーローニュの森の朝の乗馬1873年油彩キャンバス226 × 262 cmハンブルク美術館1873年サロン落選落選展出品。 『踊り子1874年油彩キャンバス、142.5 × 94.5 cmナショナル・ギャラリーワシントンD.C.)。第1回印象派展出品。 『桟敷席1874年油彩キャンバス80 × 64 cmコートールド・ギャラリー第1回印象派展出品。 『パリジェンヌ青衣の女)』1874年油彩キャンバス、163.2 × 108.3 cmカーディフ国立博物館第1回印象派展出品。 『モネ夫人と息子』1874年油彩キャンバス、50.4 × 68 cmナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『アルジャントゥイユ帆船1874年油彩キャンバス、50.2 × 65.4 cmポートランド美術館

※この「第1回印象派展まで(1871年-1874年)」の解説は、「ピエール=オーギュスト・ルノワール」の解説の一部です。
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