ヴェトゥイユ
ヴェトゥイユ(1878年 - 1881年)
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「クロード・モネ」の記事における「ヴェトゥイユ(1878年 - 1881年)」の解説
モネ一家は、1878年9月、マネから引っ越し費用を借りて、セーヌ川の50キロほど下流にある小さな村ヴェトゥイユに移った。ちょうどこのころ、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデは、破産して住むところを失っていた。オシュデは、妻アリス・オシュデ(英語版)と6人の子ども(マルト、ブランシュ(英語版)、シュザンヌ(英語版)、ジェルメーヌの姉妹4人、ジャック、ジャン=ピエールの兄弟2人)とともに、ヴェトゥイユのモネの家で同居生活を送ることになった。 ヴェトゥイユ時代には、印象派の仲間たちとの間は疎遠になっていった。グループ内では特に、印象派展の売れ行きが思わしくない中、サロンに応募するか否かという点は深刻な対立点となった。ドガが、サロンに応募する者はグループ展に参加させないことを強く主張していたのに対し、ルノワールは1878年にサロンに応募し、モネも、グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった。1879年4月の第4回印象派展は、ドガが中心となって開催し、モネは当初出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した。モネは、第4回展への出品に同意した理由について、「気は進まなかったが、裏切り者と思われたくなかったから」と述べている。第4回展では、初めて利益が出て、1人439フランの配当金が与えられた。 経済的には依然として苦しく、妻カミーユと子供の病気が重なり、ヴェトゥイユの大家族は、食糧も暖房もない生活を強いられた。1879年9月5日、カミーユが32歳で亡くなった。モネはこのとき、『死の床のカミーユ』を制作している。妻を失ったモネは、ピサロに「君はほかの誰よりも僕の悲しみを分かってくれるだろう。徹底的に打ちのめされ、再び生きる気力もなく、2人の子どもを連れてどのように暮らしていけばいいのか、皆目分からない」と書いている。 その後、エルネスト・オシュデはパリに仕事に出ていったが、妻アリス・オシュデはヴェトゥイユに留まり、モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。モネとアリスとの関係は深まっていった。 1879年から1880年にかけての冬は異例の寒さとなり、セーヌ川が完全に結氷し、その後、激しい勢いで解氷した。モネはこの現象に強く興味を引かれ、描く時間や角度の違いによる光の変化を絵にすることに夢中になった。 1880年のサロンには、10年ぶりに出品した。長年サロン審査に反抗していたモネがサロンへの出品を決意した理由には、前年のサロンでルノワールが初めて高い評価を得たことに加え、経済的に逼迫する中、入選すれば画商ジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待もあった。モネが提出した2点のうち、比較的伝統的なスタイルで描いた『ラヴァクール』だけは入選したが、壁の上の方の不利な場所に展示された。ゾラは「10年もたたないうちに、彼は認められ、報いられるだろう」と評価したが、作品が手早く描かれすぎているとの批判も加えた。一方、モネは、第5回印象派展への出展は拒否した。モネがサロンに出品したことで、印象派グループの解体は決定的になった。ドガは、モネを裏切り者として非難した。このころルノワールは、印象主義的作品から、明確な輪郭線と形態を持つ作品に回帰し、シスレー、セザンヌとともにサロンに応募していた。印象派展に残ったピサロはジョルジュ・スーラの新印象主義に接近しており、印象派のスタイル自体が変容を迎えていた。モネは、印象派展に加わったジャン=フランソワ・ラファエリや、ポール・ゴーギャンに対して、非常に低い評価を与えていた。第5回展は、もはや印象派展とはいいがたいものとなった。 1880年6月、『ラ・ヴィ・モデルヌ』誌のギャラリーで、初めてモネの個展が開かれ、『解氷』などヴェトゥイユの風景画を中心とする17点が展示された。作品数点が売れた。新聞の評価は好意的で、ポール・シニャックら若い画家たちにとって、モネは英雄的な存在になりつつあった。 フランスの景気が回復する中、デュラン=リュエルが経済的に立ち直り、1881年初め、モネとの間で定期的に大量の絵を購入する契約を結んだ。これにより、モネの経済的基盤は安定した。同年4月の第6回印象派展やサロンには出品する必要を見なかった。 『ヴェトゥイユの雪の効果』1878 - 79年。油彩、キャンバス、52.5 × 71 cm。オルセー美術館(W506)。 『死の床のカミーユ』1879年。油彩、キャンバス、90 × 68 cm。オルセー美術館(W543)。 『解氷』1880年。油彩、キャンバス、97 × 148 cm。シェルバーン美術館(英語版)(米バーモント州)。 『ラヴァクール』1880年。油彩、キャンバス、100 × 150 cm。ダラス美術館。同年サロン入選。(W578)。 『ヴェトゥイユの画家の庭』1881年。油彩、キャンバス、151.5 × 121 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)(W685)。
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