ポワシーとは? わかりやすく解説

ポワシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/04 03:12 UTC 版)

Poissy
行政
フランス
地域圏 (Région) イル・ド・フランス地域圏
(département) イヴリーヌ県
(arrondissement) サン=ジェルマン=アン=レー郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 78498
郵便番号 78300
市長任期 フレデリク・ベルナール
1995年-2014年
人口動態
人口 37,206人
2007年
人口密度 2 801人/km2
住民の呼称 Pisciacais, Pisciacaise
地理
座標 北緯48度55分46秒 東経2度02分44秒 / 北緯48.929444度 東経2.045556度 / 48.929444; 2.045556座標: 北緯48度55分46秒 東経2度02分44秒 / 北緯48.929444度 東経2.045556度 / 48.929444; 2.045556
標高 平均:27m
最低:17 m
最高:171 m
面積 13.28km2 (1328ha)
Poissy
公式サイト www.ville-poissy.fr
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ポワシー (Poissy) は、フランスイル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県の都市。

地理

ポワシーは県の北東部、パリ西方約30km、サン=ジェルマン=アン=レーの5マイル西に位置する。セーヌ川が蛇行した部分の左岸にある。

交通

歴史

19世紀に描かれたポワシーのセーヌ河岸

ガリア時代のポワシーは、農民と漁民の暮らす小さな村であった。

メロヴィング朝時代のポワシーはPinciacumと呼ばれ、Pincerais伯領(セーヌ川とイヴリーヌの森の間が領域)の首都であった。シャルトル司教座に属する主司祭座がおかれていた[1]

5世紀以降のポワシーは王の居住地であった。868年、シャルル2世はポワシーで高官を集め集会を開いた。996年から1031年、ロベール2世はポワシーに王城をかまえ、ノートルダム教会を建設した。彼の2度目の妃ベルト・ド・ブルゴーニュアウグスチノ会派の女子修道院を建てた。

カペー王朝時代には、ポワシーに2つの城が存在した。古い城はメロヴィング朝期のもの、もう1つはコンスタンス・ダルルが建てたといわれている。1188年、フィリップ2世はポワシー住民が軍役につく替わりに自治を与えた[2]。1200年、フィリップ2世はポワシーの城を息子ルイ8世に与え、この城でルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユとの婚儀が行われた。ルイ9世フィリップ3世はポワシーで誕生している。

1297年、ルイ9世がローマ教皇ボニファティウス8世によって聖別されると、フィリップ4世はポワシーにドミニコ会修道院を建設し、聖王ルイに捧げた。

百年戦争中の1346年、ノルマンディーに上陸したイングランドエドワード3世はセーヌ川谷を荒らし、ポワシーを占領した。エドワード黒太子がポワシー城を炎上させた(1369年、シャルル5世は城の遺構を取り壊した)。

1561年10月、カトリーヌ・ド・メディシスカトリックユグノー両派代表を招いてポワシー会談を開いたが失敗に終わった。この和解の試みの失敗が、ユグノー戦争勃発へつながった。

17世紀、カプチン会ウルスラ会がそれぞれ修道院を建てた。

1790年、ポワシーは新たに創設されたセーヌ=エ=オワーズ県の郡庁所在地となった。

1832年、イングランドから上陸したコレラ流行は瞬く間にパリ地方に広がり、ポワシーでは少なくとも70人が犠牲となった[3]。1841年、パリ=ルーアン間の鉄道路線がポワシーに敷かれた。1881年、グランド・サンチュールが開業した。

第一次世界大戦中のポワシーは、要塞化された駐屯地や2箇所の病院を持つコミューンだった。1922年から1927年にかけ、硬貨製造会社ソシエテ・フランセーズ・ド・モネヤージュが工場を置き、ポワシーは国内の硬貨鋳造中心地となった。6億5千枚もの硬貨が、フランスやフランス領植民地の硬貨のみならず、諸外国のためにつくられていた[4]。1937年、フォードが軍用トラック製造工場を設置した。

第二次世界大戦中の1940年6月、ドイツ軍がポワシーへ侵攻した。ポワシーのセーヌ川に架かる橋は、フランス南部へ逃れようとする避難民の長い列ができた。ドイツ軍に接収されたフォードの工場では、ドイツ軍用車両が製造されていた。この工場を標的としたイギリス空軍の空爆が数回行われ、死者・負傷者を出した。アメリカ軍によってコミューンが解放されたのは1944年8月26日であった。

経済

PSA

1999年の時点で、ポワシーは人口約36,000人に対して20,000人以上がコミューン内で働いている、県の主要な雇用中心地である。内訳は工業と建設業が約35%、第三次産業が64%となっている。自動車関連の職種で働く比率が高い[5]

ポワシーにある主な企業

政治・行政

かつてのポワシーは、長期にわたりフランス共産党を含む左派の牙城とされるコミューンであったが、現在は中道左派に移行している。2007年フランス大統領選挙の第一回投票では、ニコラ・サルコジが投票数の34.15%を獲得して首位となった[6]

行政治安の面に関しては、刑事施設として、困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルが置かれている。

史跡

  • ノートルダム教会 - 12世紀。ルイ9世が洗礼を受けた教会。1840年にフランス歴史文化財に登録された。
  • 旧橋 - 12世紀の石組み橋
  • 旧コミューン庁舎[7] - かつてのカプチン派修道院建物で、1620年に完成した。1837年より庁舎となっている。
  • 旧税関 - 1830年完成。六角形のかたちをしている。現在は観光事務所が入っている。
  • サヴォア邸 - ル・コルビュジエが設計

姉妹都市

関係者

出身者
居住その他ゆかりある人物

脚注

  1. ^ Jacques Tréton, Histoire de Montainville en Pincerais, édition à compte d'auteur, 1998 ISBN 2-9512315-0-4, p. 53.
  2. ^ André Chédeville, « Le mouvement communal en France aux XIe et XIIe siècles, ses éléments constitutifs et ses relations avec le pouvoir royal » in Robert Favreau, Régis Rech et Yves-Jean Riou (directeurs), Bonnes villes du Poitou et des pays charentais (XII-XVIII siècles) : Actes du colloque tenu à Saint-Jean-d’Angély les 24-25 septembre 1999, publiés par la Société des antiquaires de l'Ouest in Mémoires de la Société des antiquaires de l'Ouest et des musées de Poitiers, 5 série, tome VIII (2002), à Poitiers. ISBN 2-9519441-0-1, p. 22
  3. ^ Narcisse Noël, op. cit., p. 281.
  4. ^ Poissy, cent ans d'images, op. cit. p. 138.
  5. ^ Emplois au lieu de travail selon l'activité économique des individus Insee
  6. ^ Scrutin présidentiel de 2007 - Poissy
  7. ^ Hôtel-de-ville

ポワシー(1881年 - 1883年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「ポワシー(1881年 - 1883年)」の解説

1881年12月デュラン=リュエルから引っ越し費用援助得てポワシーに移った。ちょうど賃借契約満期になったうえ、アリスとの関係がヴェトゥイユ住民から白眼視されていたことも理由であった。しかし、アリスその子どもたちは、パリに戻るようにとのエルネスト・オシュデ求め反してポワシーに同行することとなり、モネアリスとの関係は、エルネストに対してますます説明難しいものとなったモネはポワシーの土地毛嫌いしており、「この土地は僕にはまった合わない」とたびたび述べている。その代わりに、早くも1882年2月からノルマンディー地方制作旅行出てディエップ断崖や、ヴァランジュヴィル=シュル=メール近くプールヴィル英語版)の断崖描いた1882年3月第7回印象派展は、内紛の末、デュラン=リュエルが仲介し、ようやくモネを含む9人の参加開催こぎつけたモネ当初出品拒否していたが、ユニオン・ジェネラル銀行フランス語版)の破綻打撃被ったデュラン=リュエルを支援するため、海景画風景画静物画など35点を出品することとした。しかしモネは、会期中、一度会場足を運んでいない。新聞からは依然として批判もあったが、海の風景画好評呼んだ1883年1月からは、再びポワシーを逃れてノルマンディー地方旅行しエトルタ断崖描いたこの年から1886年にかけては、定期的にエトルタ海岸訪れ断崖奇岩描いている。ここでは戸外下絵制作し、家に持ち帰ってアトリエ仕上げるという手法とっている。 1883年3月には、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り英語版)に新しく開いた画廊で、モネ作品56点の個展開いたが、反響はなく、モネデュラン=リュエルの準備不足非難した。 『プールヴィル断崖の上散歩英語版)』1882年油彩キャンバス、66.5 × 82.3 cmシカゴ美術館(W758)。 『エトルタ嵐の海英語版)』1883年油彩キャンバス100 × 81 cmリヨン美術館(W821)。 『マンヌポルト(エトルタ)』1883年油彩キャンバス、65.4 × 81.3 cmメトロポリタン美術館(W832)。

※この「ポワシー(1881年 - 1883年)」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「ポワシー(1881年 - 1883年)」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。

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