近世の三部会とは? わかりやすく解説

近世の三部会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:45 UTC 版)

三部会」の記事における「近世の三部会」の解説

三部会王家資金欠乏カトリックとプロテスタントユグノー)との対立により16世紀後半復活したアンリ2世崩御後実権握った母后カトリーヌ・ド・メディシス1560年オルレアン三部会招集し摂政指名を受けるとともに宗教融和策を図った。翌1561年にはポワシーポントワーズでの三部会招集され聖職者層に圧力をかけて財政負担了承させることに成功したが(ポワシー協定)、カトリックプロテスタントとの会談失敗終わったポワシー会談)。 ユグノー戦争中にアンリ3世によって招集され1576年ブロワ三部会では国王カトリック同盟要求受け入れユグノーとの和平協定破棄している。カトリック同盟圧力が増す中で開催され1588年ブロワ三部会アンリ3世による同盟首領ギーズ公アンリ暗殺というクーデター終わったアンリ3世暗殺されプロテスタントアンリ4世即位すると、彼に敵対するカトリック同盟1593年パリ三部会招集しカトリック教徒国王選出試みた成功しなかった(同盟三部会:États de la Ligue)。 1614年アンリ4世死に続いて政治的な混乱起きコンデ公要求により摂政マリー・ド・メディシスパリで再び三部会招集した議事録では高貴な愛国心記録者から賞賛されていたものの、三身分意見衝突が彼らを弱め結局三部会仕事終えことなく閉会している。以後1789年まで再び招集されることはなかった。 この後ブルジョワ出身法服貴族から成る高等法院が、王権への諮問機関そして(もっぱら貴族特権擁護のためだが)進展する絶対王対す抵抗勢力としての役割果たしている。 ルイ14世成人の際に新たな三部会の招集発表され公開状が各選挙区配布されたが、結局三部会開かれることはなかった。絶対王政明確に確立するとともに三部会機能とは両立しえないことが明白になった。ブルゴーニュ公ルイルイ14世の孫で王太子)の側近だった自由主義者たちは将来ブルゴーニュ公即位に際して三部会再開準備していた。サン=シモン公とフランソワ・フェヌロンがこの計画立てていたが、フェヌロン選挙によらない貴族による会議優先していた。ブルゴーニュ公早世し、ルイ14世崩御後に幼いルイ15世即位しサン=シモン公は摂政オルレアン公フィリップ2世重用されたものの、三部会招集されることはなかった。

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