近世のカルーガ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 18:28 UTC 版)
1708年のピョートル1世による地方改革で、カルーガはモスクワ県の一部となる。1775年にはエカチェリーナ2世がカルーガに行幸し、翌1776年8月24日にはカルーガ県が設けられ、カルーガは12の郡をまとめる県都となった。またエカチェリーナ2世は新古典主義建築による都市計画も制定させた。当時の人口は17,000人ほどであり、市街地には石造建築が立ち並び、それまでの名産品であった木工品やレースに加え、レンガやタイルの工場をはじめ小さな工場が多数立つようになった。1777年には、ロシアでも最古の部類に入るドラマ劇場が開かれた。 一方で災害も多かった。1723年と1737年には、飢饉のために町は廃墟となった。1742年から1761年にかけて、町は幾度も焼失を被った。1771年にはペストが猛威を振るった。
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