近世における舞踊の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 17:00 UTC 版)
近世に入り、羽地朝秀や蔡温の大改革以降、古琉球の神道を中心とした祭政一致の政治や文化から儒教を中心とした教えに基づき内政の大転換が行われ、文化面でも積極的な振興策により琉球文化が隆盛した。王府は、躍奉行(おどりぶぎょう)と呼ばれる奉行を設け、躍奉行が踊り手、演奏者などを任命した。その際の踊り手、演奏者は全て首里士族の子弟を中心に任命された。その際、踊られていたのが、中国からの冊封使をもてなすための芸能、御冠船踊り、今日で言う「古典舞踊」である。この頃(16 - 17世紀頃)までには古典舞踊としての様式が確立していたと見られている。 日本との関係でも、薩摩藩の琉球侵攻(1609年)後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた江戸上りの使節には、琉球舞踊を踊るための踊童子が含まれており、徳川将軍の御前や江戸薩摩藩邸などでも披露された。
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