近世における庶民化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:46 UTC 版)
江戸時代には観音巡礼が広まり、関東の坂東三十三観音や秩父三十四箇所と併せて日本百観音と言われるようになり、江戸時代初期からは「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。江戸からの巡礼者は、まず伊勢神宮に参拝した後で第一番の青岸渡寺へ向かい、途中高野山・比叡山などにも参拝しつつ、結願の33番谷汲山を目指した。そして帰途にお礼参りとして信濃善光寺を参拝するのが通例となっていた。三十三所で巡礼を終わらせずに別の寺院にも参拝している理由としては、江戸からの行程の途中に善光寺があること、観音の本地が善光寺阿弥陀如来とされたことなどが指摘されている。一方、お礼参り(=巡礼の終了)の善光寺を敢えてしない巡礼者もいた。「巡礼の終わりは死に急ぐ」という俗信に依ってだという。 近世には、幕藩体制が整えられて社会が安定し、寺社の経済的再建が進むにつれ、本願への抑圧と寺社運営からの排除が進んだ。こうした排除は、例えば那智山では、延享元年(1744年)の裁許状をもって本願所から造営修理権・勧進権が剥奪されるまでに至った。しかし、本願所によって募られていた庶民の奉加と散銭は、寺社の造営に依然として欠かせないものであった。例えば、勧進活動に替わるものとしての本尊開帳も享保年間(1716年 - 1735年)には、幕府により、寺社焼失のような例外を除いて33年に1度のみとする規制が加えられた。そこで寺社の側では、いっそう増加する庶民巡礼から奉加・散銭を得るべく、寺院全体を三十三所の巡礼寺院として宣伝した。 巡礼者側も三十三所に加え、坂東三十三観音や現在では新西国三十三箇所観音霊場に入っている別の観音霊場を参拝することもあった。例えば文化年間に西国巡礼を行った益子広三郎は、伊勢神宮→1番青岸渡寺→(現在の新西国5番)道成寺→得生寺→2番紀三井寺…という順序で巡礼しており、四国の金毘羅宮などの何の関係のない神社まで参拝しているという。益子の場合、帰途には坂東18番の日光山まで参拝している。これは、観光旅行が自由にできなかった江戸期においても、伊勢参りや霊場参拝を理由とすれば、比較的容易に通行手形を得ることができたため、金銭や時間に比較的余裕がある場合は、できるだけ多くの寺社を参拝し、札所も熊野那智や奈良・京都、天橋立など各地の名所に立ち寄れるような場所に配置されているため、観光旅行を兼ねていた面もある。
※この「近世における庶民化」の解説は、「西国三十三所」の解説の一部です。
「近世における庶民化」を含む「西国三十三所」の記事については、「西国三十三所」の概要を参照ください。
- 近世における庶民化のページへのリンク