近世における伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 13:57 UTC 版)
江戸時代中期から、検証可能な形で文書の伝承が確認されている。ひとつは、奈良の律宗の寺院で西大寺の末寺である寂照寺の住職であった僧溥泉(ふせん)の下である。溥泉は、先師よりホツマツタヱとミカサフミおよびカクのフミの写本を見せられ、朝日神紀・春日山紀・神明帰仏編を記し、その中でそれらを引用した。この内、春日山紀は安永8年(1779年)に出版された。溥泉の蔵書は、現在龍谷大学の図書館に所蔵されている。しかしながら、ヲシテ文献の写本はカクのフミの1アヤ分のみしか発見されていない。 もうひとつは、和仁估(わにこ)氏の末裔であると称する近江の和仁估安聡のところである。和仁估は祖父より写本を相伝し、ヲシテ文献について研究を重ねた。そして、写本の校正と漢訳を試みた。その際、比叡山の石室に納められた写本をも参照したという。また、写本を伏見宮家にも奉納したという。和仁估によるホツマツタヱとミカサフミの写本(いずれも漢訳付)は発見ずみである。ただし、伏見宮家にあるという写本、あるいは比叡山の写本は発見されていない。 確認されている和仁估によるホツマツタヱの写本2種の内、漢訳のない写本は天保年間に京都の天道宮の神主を務めていた小笠原通当に貸し出された。小笠原は溥泉の春日山紀を読んで読解の方法を知り、神代巻秀真政伝をまとめて天保14年(1843年)に刊行した。その後、この写本は、子孫の小笠原長弘に継承され、長弘によって返還されたがその後原本は失われた。長弘によって写された写本および、その甥の小笠原長武によって写された写本が現存している。 長弘は明治7年(1874年)正木昇之助と共にホツマツタヱの一部を抜粋し、宮中に奉呈しようと試みた。この写本は、現在「奉呈本」とよばれている。その後、長武によって完写本が内閣文庫に収められた。長武は、ホツマツタヱと古事記・日本書紀の同一内容の箇所を比較して研究することをはじめて試みている。松本善之助や池田満の現代研究につながる端緒を小笠原長武が開いたと言える。 これらの動きはあったが、ヲシテ文献は世間に知られることもなく埋もれていた。
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