近世と宗教改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 20:16 UTC 版)
リートベルク伯(ドイツ語版、英語版)は、1237年に独立した支配権を獲得した。このリートベルク伯領にはボルンホルテ、ゼンデ、エスターヴィーエ。リームケとギュータースロー農場、後のフェルル農場が含まれた。 1512年フェルル農場内に礼拝堂が建設された。この礼拝堂は1577年頃に教区教会に昇格され、これ以後フェルル、ゼンデ、ボルンホルテの中央にフェルル教区教会が設けられた。 現在カトリック信者が多いのは、旧リートベルク伯領の歴史によるものである。この伯家はカトリックで、住民は領主の信仰に従っていた(Cuius regio, eius religio(英語版)、すなわち「領主の信仰が領邦の信仰」)。リートベルク伯とヘッセン方伯とのレーエン関係に基づき、この地でも1537年に一旦宗教改革が受け容れられた。しかし1610年に伯家とその家臣は再びカトリックの信仰に戻った。これが、第二次世界大戦後に福音主義の数多くの難民や放逐された人々が当時のアムト・フェルルに定住したにもかかわらず、現在でもカトリック信者が多数であることの礎となった。 三十年戦争の初期には、フェルル周辺地域で悲惨きわまりない事態は生じなかった。同じ頃、流行したペストがフェルルの住民の多くに危害を加えた。1635年にビーレフェルトで冬越ししていたリューネブルク軍が周辺を略奪した。彼らは食料を求めてリートベルク方面へ出かけ、穀物やトウモロコシを強奪していった。奪われるものを持たない者は皆殺害された。1644年にヘッセン軍が、その3年後にスウェーデン軍がこの地域で略奪を働いた。1648年の戦争終了後も、蔓延する困窮のために、復興を始めることは困難であった。1676年にフェルル周辺で赤痢が流行し、125人以上がその犠牲となった。 1746年9月6日、カウニッツ(当時はノイ=カウニッツ)の教会の定礎がなされた。この教会は村建設の核となった。マクシミリアン・ウルリヒ・フォン・カウニッツ=リートベルクとその妻マリア・エルネスティーネの命令により、この教会はエスターヴィーエとリームケとの境界「マイブルク」に建設された。ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ=リートベルクは、1792年に聖アンナ教会の建設を命じた。この古典主義様式のハレンキルヒェは、同じ場所にあった1512年建造の礼拝堂に替わるもので、1801年に完成した。 最後のカウニッツ領主の下、13世紀以降フェルルが属すリーベルク伯は、1807年にナポレオン1世によって新たに創設されたヴェストファーレン王国に併合され、独立性を失った。この伯領からカントン・リートベルクとカントン・ノイエンキルヒェンの2つの地方行政区が設けられた。両者はフルダ県パーダーボルン管区に属した。ウィーン会議後、1815年にこの地域はプロイセン領となり、1816年に新設されたヴィーデンブリュック郡に編入された。1822年にアロイス・フォン・カウニッツは伯の御料地をニーダーバルクハウゼンの農場主フリードリヒ・ルートヴィヒ・テンゲに売却した。 1838年7月1日にノイエンキルヒェンのカントン行政府がフェルルに移された。それまでカントン・リートベルクに属していたエスターヴィーエとリームケはカウニッツ村とともにこの新しいカントンに移管された。1841年10月31日のプロイセンの地方自治体法に伴い、1843年6月16日に、カントンからアムト・フェルルに改名された。1848年、極度の困窮が、バルクハウゼンに移った領主フリードリヒ・ルートヴィヒ・タンゲの前でフェルルの農民たちが課された税の減額を嘆願するきっかけとなった。リートベルク伯領やアムト・デルブリュックからの人々もフェルルの農民に合流した。合計 4,000人がバルクハウゼンに向かった。この頃フェルル周辺地域は貧しいことで知られていた。1856年には飢餓チフス(発疹チフス)が発生し、これを裏付けた。
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