近世から近代
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「柳窪 (東久留米市)」の記事における「近世から近代」の解説
江戸時代には武蔵野の荒地が開墾されて田畑となった。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発され、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858年)に一時期熊本藩領となったのを除き、幕末まで天領であった。村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている。 江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在では柳窪一丁目 - 五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年(明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった。
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近世から近代
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近世には伊勢国一志郡に属し、太郎生村として津藩の配下にあった。村高は『文禄3年高帳』と『元禄郷帳』では520石台であったが、『天保郷帳』では1,087石余に増え、『旧高旧領取調帳』では912石余に減っている。特産品には炭と茶があり、後者は少なくとも元禄年間(1688年 - 1704年)には栽培を行っており、伊賀国や大坂方面へ出荷していた。近隣との関係では大和国曽爾と山論が発生、明治に至るまで解決を見なかった。慶応4年(1872年)から明治3年(1870年)までは東海道関宿の助郷を務めた。 明治4年(1871年)の廃藩置県では度会県に属し、大区小区制下では第5大区小8ノ区に割り当てられた。1874年(明治7年)7月に戸長が置かれることになると太郎生村は川口村(現・津市白山町川口)の第15区事務所の管轄下に入った。1874年(明治8年)2月10日、中垣内と下垣内の須賀神社参籠所を増築し、84人の児童をもって太郎生小学校が開校した。1875年(明治9年)に度会県が三重県に編入されたことで三重県の所属となった。同年の伊勢暴動では土地鑑定人宅など8戸が焼失した。続いて1878年(明治11年)3月10日に竹原村(現・津市美杉町竹原)の第11連区竹原組役所に所属、翌1879年(明治12年)2月5日に独立した太郎生村戸長役場となるが、1884年(明治17年)10月24日に石名原村(現・津市美杉町石名原)の石名原村戸長役場の所属となり、1889年(明治22年)4月の町村制施行時に名実ともに独立した太郎生村となった。同年に太郎生村駐在所が開設された。 1909年(明治42年)3月21日に太郎生郵便局が開局した。1912年(明治45年)4月には太郎生小学校飯垣内分校が非公認ながら開校し、1917年(大正6年)まで3年生以下の児童が通学した。1922年(大正11年)に電灯が灯り(津電灯)、1933年(昭和8年)10月6日に5人が契約して電話が開通した。
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