落選展
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落選展(らくせんてん、フランス語: Salon des Refusés)は、意味としては、フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会のことであるが、特に1863年の展覧会を指す場合が多い。落選者展とも表記される。
落選展がはじまったのは1830年代と早く、パリのアート・ギャラリーが、サロンに落選した作品を集めた、小規模かつプライベートな展覧会を催していた。 それが1863年の展覧会は大騒ぎで、実はフランス政府が後援していた。この年、いつもの年より多い、3,000点以上の作品がサロンに落選したことに、美術家たちが抗議したのだった。展覧会には次のような公式の告示が出された。
「 | 一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む |
」 |
フランス皇帝ナポレオン3世も、サロンに付随して、落選した美術家たちが自分たちの作品を展示してもよいという命令を発した。しかし、多くの批評家ならびに大衆は落選作品を嘲笑した。その中には、エドゥアール・マネの『草上の昼食』、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『白の少女』が含まれていた。しかし、絵画の世界に突如として出現したアバンギャルドの正当性を認め、注目する批評もあった。マネの励ましもあって、1874年、印象派はサロンの外ではじめた展覧会を成功させた。落選展は、1874年、1875年、1886年にもパリで開催され、その頃にはパリ・サロンの名声も影響力も衰えてしまっていた。
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エミール・ゾラは、1863年のスキャンダルを虚実ないまぜにして、小説『制作』(1886年)の中に取り込んでいる。
現在、「落選展」という言葉は、パリ・サロンに限らず、審査員制のある美術展から落選した作品の展覧会全般に広く使われている。
脚注
参考文献
- Brombert, Beth Archer (1996). Edouard Manet: Rebel in a Frock Coat. Boston: Little, Brown.
- Hauptman, William (March 1985). "Juries, Protests, and Counter-Exhibitions Before 1850." The Art Bulletin 67 (1): 97-107.
- Mainardi, Patricia (1987). Art and Politics of the Second Empire: The Universal Expositions of 1855 and 1867. New Haven: Yale U Pr.
関連項目
落選展
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350年以上の歴史を誇るル・サロン(官展)に対する批判は、すでに1863年に5000点の応募に対して3000点を落選としたことに対する抗議として、サロン落選者のための落選展が開催されたことで顕在化されたが(その後1864年、1873年、1875年、1886年に開催)、落選展の前史は1846年に遡る。同年のル・サロン展でギュスターヴ・クールベの自画像《パイプをくわえた男》を含む複数の作品が落選したために、象徴派の詩人シャルル・ボードレールや写実主義の理論家シャンフルーリ(フランス語版)がこれに抗議した。彼らの支持を得たクールベは、1855年のパリ万国博覧会で(一部の作品は展示されたものの)再び《画家のアトリエ》などの作品が出品を拒否されると、これに抗議して、パレ・デ・ボサール(芸術宮)の隣に木造の小屋を建てて「写実主義館(Pavillon du réalisme)」と名付け、ここに自作を展示して、作品だけでなく「審査員の能力」をも来館者に評価させた。1859年には同じく写実主義の画家フランソワ・ボンヴァンがル・サロンの審査に抗議するために、自宅でアンリ・ファンタン=ラトゥール、アルフォンス・ルグロ、オーギュスタン・テオデュール・リボーらの作品を展示した。1861年に画家・詩人のテオドール・ヴェロン(Théodore Veron) がナポレオン3世に「落選者の嘆願書」を送り、落選展を開催する許可を得ることになった。
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